アール・デコ風あるいは前衛美術風の装丁に見つめられるとつい「♪おじさん私をお家へつれてって〜♪」というメロディが頭の中を駆け巡り、気がつくと購入していることが多い。斎藤薫雄、梯一郎『児童陸上競技の指導と実際』(厚生閣、昭和4年)もそんな風にしてわが家の書棚に並んだ。しかし、問題がある。装丁家名がどこにも記されていないことだ。


タイトルの創作図案文字が何とも言えなくいいですね。ちょうどこの頃に、このタイトルのようなキネマ文字と呼ばれる映画のタイトルが盛んに使われていた。印刷物もキネマに負けじと創作図案文字の題字を作り出していたんですね。というより、創作図案文字の方が古くからあったンだから、見事で当然です。



斎藤薫雄、梯一郎『児童陸上競技の指導と実際』(厚生閣、昭和4年)


背の下の部分に、サインらしきモノを見つけたが、果たして誰のサインなのか、解読できない。




このサインは絵葉書だったか? で見たことがある。いずれ解読できるだろう。

平福百穂の装丁本を久しぶりに購入した。森川汀川『歌集 峠道』(古今書院、昭和7年)古書価300円(函付き)がその本。古今書院の「アララギ叢書」の第1篇「馬鈴薯の花」から「山下水」まで230篇が全部百穂の装丁かどうかを確かめてはいないが、このシリーズだけでも百穂の装丁本はかなりの数にのぼるものと思われる。架蔵書も100冊くらいはあるかも知れないので、百穂の話しにも挑戦して見たい。



森川汀川『歌集 峠道』(古今書院昭和7年


平福百穂ひらふく ひゃくすい)1877(明治10)年-1933(昭和8)年10月30日)は日本画家。画家・平福穂庵の四男として、秋田県角館(仙北市)に生まれた。本名は貞蔵。
幼い時から地元の豪商那波家のコレクションなどで、秋田蘭画を見て育ったが、1890年から父から絵を学びはじめる。同年末に父が急死すると、翌年から父の後援者の援助を受け、本格的に絵を学び始める。同じ年の秋に開かれた亡父の追悼画会で画才を認められ、「百年」の百と「穂庵」の穂を取って「百穂」と号す。 1894年に上京し、四条派の第一人者川端玉章内弟子となる。 明治30年(1897年)川端塾の先輩だった結城素明の勧めにより東京美術学校に入学。1899年卒業後、素明らと无声会を結成、日本美術院ロマン主義的歴史画とは対照的な自然主義的写生画を目指す。大正5年(1916年)金鈴社結成後は、中国の画像石や画巻、南画への関心を示す古典回帰が見られる作品を発表、やがて昭和7年(1932年)の「小松山」など、自然主義と古典が融合した作品を生み出すに至った。
一方で1903年頃からは伊藤左千夫と親しくなりアララギ派歌人としても活動、歌集「寒竹」を残す。(フリー百科事典『ウィキペディアWikipedia)』)

先週、高円寺の古書市で購入してきた本の第3冊目はこれ。岸田劉生:装丁、武者小路実篤『第二の母』(聚英閣、大正8年)古書価800円。岸田劉生の装丁も好きなのだが、伊上凡骨彫刀とあるのが気になって購入してしまった。伊上凡骨は木版画の彫師だが、気骨のある彫師で、「伊上凡骨(いがみ ぼんこつ)1875‐1933明治-昭和時代前期の木版彫師。明治8年5月21日生まれ。24年に上京、初代大倉半兵衛に木版彫刻を学ぶ。33年「明星」の挿絵で注目される。水彩画や素描の質感を木版でたくみに表現した。「光風」の口絵、竹久夢二の



岸田劉生:装丁、武者小路実篤『第二の母』(聚英閣、大正8年

伊上凡骨は、与謝野晶子『小扇』(金尾文淵堂、明治34年)、与謝野鉄幹・晶子『毒草』(本郷書院、明治37年)などで、彫師としてだけではなく、新たな版画の技法を創出して歴史に名を残す事になった。彫師の立場からの表現の可能性を追い求めた。具体的にいうと、藤島武二が描いた原画のもつパステル等のタッチを木版画でそのままに再現しようとしたのである。つまり、彫版の技法そのものが美術としての版画を創出できると考えていた。彫りの技法を高める事による、絵師、彫師、摺師の共同制作になる複製物制作という伝統的な木版画から、美術と



藤島武二:装丁、与謝野鉄幹与謝野晶子『毒草』(本郷書院、明治37年
刺激的なタイトルからは、二人の思い入れの程がうかがえる。読を振り撒く本というような意味合いがあるのだろうか。
朝鮮朝顔、毒茸、浦島草などの毒を含む植物を配している。チョウセンアサガオ朝鮮朝顔、学名:Datura metel)は、ナス科の植物。 園芸用にはダチュラの名で広く流通しており、マンダラゲ(曼陀羅華)、キチガイナスビの異名もある。世界初の全身麻酔手術に成功した江戸時代の医学者、華岡青洲が精製した麻酔薬がアトロピンを含んでいる本種を主成分としており、過去には鎮痙薬として使用された。



与謝野晶子『毒草』の挿絵「朝」、原画にある中間調やパステルのタッチを出すなどの工夫が見える。


しかし、山本鼎藤島武二の絵を版画として再生するこれらの活動を批判して「我々の感情は強水に交はつて銅版を噛むのである。我々の感情は彫刀に伝はつて木版を刻むのである。我々は水彩画パステル画の不適切なる複製に木版師を困らせるの愚を敢てしない」(「方寸言」、『方寸』第2号、明治40年)と、書いている。
つまり、自ら絵を描きその絵の版に彫刻刀を通して感情を刻み込む事によって、作者の内面性の表現へと高める事が出来る。と主張し、内面性の表現が欠如している単なる彫版を批判している。