明日開催される実践女子短期大学講演会のためにと、英領カナダ出身の製本師W.F.Patersonパターソンによって日本で最初に作られた洋式製本の書物『西洋開化史』(印書局、明治8年)を購入した。小口マーブルが施された『西洋開化史』は一見シックではあるが、瀟洒でおしゃれな見事な造本で、その後これを超える市販本はないのではないかと思われるため息物だ。



『西洋開化史』(印書局、明治8年



小口マーブルが施された『西洋開化史』(印書局、明治8年


 パターソンは、明治6年に印書局に雇われ、製本術やマーブル術、罫引き術を指導し、多くの製本術を指導した。
「そのころ彼の手に成ったと思われる『泰西政学』や、後年その技術によって制作された千数百頁にもぼる『英和国民大辞典』などの豪華本が、今なお昔日の面影を留め、その技術の素晴らしさを物語っている」(近藤金廣『紙幣寮夜話』原書房、昭和52年)と記されており、パターソンが教えながら手がけた製本の一端を垣間見ることが出来る。


大蔵省印刷局百年史』第1巻(大蔵省印刷局、昭和46年)にも明治六〜八年ごろの印刷局発行の刊行物の一部が記載されている。
「その存続の期間が工場完備を宣言して、わずか一年という短い期間であるために、発行点数もそう多いとは思われない。…とにかく、まとまった記録がないので、刊行の全ぼうを明らかにすることができない」としながら、『会議便法』『議員必携』『英国立法要約』『西洋開化史』『泰西政学』『仏蘭西法律書』『法例彙纂』の8点を記録している。そのうちの一冊と思われる、箕作(みつくり)麟祥『仏蘭西法律書』上巻、下巻(文部省、明治8年)が手元にある。



箕作麟祥仏蘭西法律書』上下巻(文部省、明治8年


印書局発行の政府刊行物は、明治7、8(1874〜75)年に集中している。印書局が完成してからわずか1年と存続期間が短かかったため発行点数も少なく、各省庁のものは大体において民間業者によって刊行されたものと思われる。


パターソンは、明治9年7月まで、印書局(当時は紙幣寮活版局と呼んだ)に勤務したが、在職中に製本の雛形をつくり、製本術伝習の順序を規定するなど、いろいろ功績があったので、解雇に際しては、功労により琥珀織一巻を賜った。パターソンから製本術を伝授された者のうち、名前の判明するのは徳屋敬忠、水野鉄次郎、上原金次郎の三名。水野鉄次郎は、本邦方式帳簿開拓者の一人にかぞえられる。


「洋式製本所で工場をやって行こうという専門の製本所が現れ出したのが、明治6年ごろで、その実質的な創始者と目されるのが、医者から転向して、あとで東京製本同業組合の設立者となり、その初代組長になった岡上儀正であった。その後、新橋竹川町に山根善一、数寄屋橋河岸の山竹(山口武次郎)、築地の新井源吉、大根河岸の武部滝三郎、芝の両角、長谷部、神田鎌倉河岸の浅倉、萩原、大津、大谷といった十二、三軒ができたという。…竹川町の山根の先代は、横浜にまだ異人館など出来なかったころ、九州の長崎でオランダ人から、洋式製本を習ったというし、山口竹次郎、新井源吉は横浜の外人居留地異人館で外人から教わったともいわれている。」(『東京製本組合五十年史』東京製本紙工業協働組合、昭和30年)と、記されているように、明治初期には十数件の洋式製本をやる製本所があった。