専太郎はこれ等の印刷になった絵の仕上がりが気に入らなかったようで、自伝には次のように記されている。

「はじめて渡された原稿は、講談速記の『赤穂義士銘々伝』の岡野金右衛門だった。まだ木版を使用していたころなので、雁皮紙といううすい紙へ毛筆で描くように、ということだった。うれしかった。うまく描きさえすれば、とにかく生計の目鼻がつく。何はともあれ、自活ができるようになることが、そのときの最大の目的だった。……年が明けて大正9年の正月も終りに近く講談雑誌の二月号が発行されると、その誌面に私の描いた絵が掲載された。が、私は何か、ものたりない気持だった。……それに、雑誌の中のさし絵は私の描いた絵とはいっても、まるで違ったものにみえた。木版の彫り師の刀のためか、印刷されたものは、画家としての私の意に満たないものだった。はじめて絵の仕事をした私には、その違いがふゆかいだった。生田さんは、今後もつづけてさし絵の仕事をくれるといったが、そのさし絵も、描くたびにこんなに変ってしまうのだろうか。……しかし、自分の描いた絵が、こんなに変ったものになって、多くの人の目にふれるのだとしたらやりきれない気もする。」(岩田専太郎『わが半生の記』家の光協会、1972年)


当時はまだ、江戸時代と同じように絵師が描いた絵を彫師が彫って出来上がった木版を活字と一緒に印刷していた。そのため、絵師が描いた絵とはだいぶ違う仕上がりになってしまい、専太郎はそのことを嘆いていたのだろう。特に「床下の小函」の挿絵は、墨一色刷りの木版ではグレーのトーンやぼかしの入ったグラデーションを再現するのは難しく、そんな下絵を渡された彫師も困惑していたに違いない。


これを反省したのだろう、専太郎は印刷に関する勉強もして、のちに富永謙太郎、志村立美、小林秀恒、林唯一たちと岩田専太郎編著『挿絵の描き方』(新潮社、昭和13年9月27日)を著し、印刷術と挿絵に関する話も取り上げている。