対談記事で忠弥大いに語る


荒田秀也さんからお借りしたスクラップブックから「近代絵画を語る 沢田哲郎氏─対談─高橋忠弥氏」という内容の新聞切り抜きを見つけた。発行日は昭和29年10月と荒田氏の手書きの記録があるが、新聞名は不明。(他のスクラップとの関連から岩手日報か岩手新報ではないかと思われる)



この写真から記事を読むのは困難でしょうから、長文だがタイプアップしてみよう。


近代絵画を語る
事物の『実在』を写す
『情景』描写は十八世紀以前
県新人の作品はいい


【東京支社発】美術の秋も独立展、二紀会展、自由美術展と第三陣の運びとなり上野の森は美術一色にぬり込められているが、一方最近の絵画はむずかしいとかわからないとかいう声も多い。東京支社ではこれらの問題や岩手の美術などを県出身の独立美術の高橋忠弥、二科会の沢田哲郎両氏に語ってもらった。〔写真は高橋氏(右)と沢田氏〕


最近の絵の傾向
司会 最近の画壇の傾向というものはどうでしょうか。たとえば一水会など見ていると、われわれシロウトでも全然疲れないというか刺激されないような気もするんですが。
沢田 一水会では写生が絵と思っているんじゃないか。画架を立てて照っても、曇っていても朝から晩まで写生しているのが絵だと思っている。最近の天然色映画を見ていても、絵の世界の写生は必要なくなるんじゃないかとさえ思えるんだが。
高橋 絵に対する考え方が間違っているんじゃないか。ものをかくといってもこれまでの絵画だと、情景を写しとるという観念があったわけだが、近代絵画は、そういうものじゃない。実在を写すのだから。情景をかく絵画は十八世紀までですよ。
沢田 しかし、文展などには情景をかいたものでなければ入選しないし、飯も食えないわけだ。
高橋 さきの一水会の問題に限っていえば、古くなり会が大きくなると会自体の運営が大変なことになり、その問題が随分大きいのじゃないかナ。
沢田 そういう意味じゃ光風会などもそうかもしれない。
高橋 文展系というのはそうなっているんじゃないか。


司会 その点二科会はどうでしょうか。


高橋 今の二科はもう絵画団体じゃないですよ。コマシャリズム・アートだ。もちろん日本画壇史的には大いに意味があるんだが、絵画の面じゃダメだ。商業デザイナーを育てたり、漫画部を設けたり、片よった形としては面白いのだが、純粋絵画の面からみれば一長一短だな。そういう意味では沢田君が二科展に出すのは損だナ。まじめな絵を考えている人間には


司会 そうなってくると、純粋の絵画というのはなんだ、ということになってきますよね。


高橋 ものの見方ということになりますが、最近の傾向としては物をプリミティブに見る、つまり最初原初的な形として見る。それともう一つ絵画以前のものとして見る。ところがこの原始的な形で見ていくというのは十九世紀初めのことで、いまは絵画以前のものとして見ていくという傾向が強くなってきている。つまり形象が崩れてきて、具象絵画と非具象絵画とに分かれてきたんだ。
沢田 ピカソはそれをうまく統一されているんじゃないか。
高橋 ピカソはそのあとだ。十九世紀後半から機械文明が入ってきて抽象絵画アブストレーというものが出てくる。これは機械文明の美しさということになるのだろうか。


日本画壇の偏向


司会 抽象絵画についていえば一般人から最近の絵画は難しいとかわからないとかいう声が強い。しかもこれはどうも絵かきの方にもそれをいわせる原因──絵かき自身に本当の意味の抽象絵画がかききれてないということなどにも問題はあるように思えるのですが。

(次回につづく)