恩地孝四郎装丁『海軍航空戦記1』

昭和19年の出版物を資料として手元の残すことが難しかったのか、残すのを敬遠していたのか、今となっては知る術がないが、この時期の恩地の装丁数を調べると恩地邦郎『装本の使命』(阿部出版、1992年)の「恩地孝四郎装丁作品目録」には4点しか記載されていない。今回紹介する海軍航空本部監修『海軍航空戦記1』(興亜日本社、昭和19年8月)は目録には記載されていない数少ない昭和19年の恩地装丁の書物である。後ろ見返しには手すりの木版画が使われており、終戦の1年前の敗戦の気配を感じていた時期だというのに、ぜいたく禁止法に引っかかりそうな本といえよう。


美術家たちが国家総動員体制に組み込まれ戦争に協力していかなければならなくなってしまう様子は、米倉寿仁の美術文化協会第1回展の宣言で「棄つべきものは棄て、採るべきものは採って一致協力国家の態(*体)制に応じて、芸術しなければならぬ」と言う言葉からもよく伺うことができる。


滝口修造や福沢一郎が検挙されたことなどにもふれ、美術文化協会が次第に激しくなる特効の内偵に屈し、陸海軍の検閲を自発的に要請し、国策に添うという宣言通りに、戦争画を描き、傷病兵を慰問する肖像画を描いたりするようになっていく当時のことを「超現実主義運動はなぜ消えたか」(「本の手帖」昭和38年5月号)に回想している。