一体どこが悪くて批判されているのか?

批判文をいくつか転載してみよう。寿岳文章『書物の共和国』(春秋社、昭和61年)には「装幀への関心がありながら、装幀の本質を全然わきまえていない最近の例として、私は谷崎潤一郎氏の『春琴抄』を取る。新聞に出た版元の広告によると、谷崎氏は『本書の装幀を創案するために、ほとんど創作と同じ苦心を払い、ようやくこの独創の装幀芸術を大成』したとある。これはおそらく売らんかな主義から出た本屋の反古同様な広告であって、よもや事実をそのまま伝えたものではなかろう。私は谷崎氏の名誉のためにそう解釈したい。」と初っぱなからなかなか手厳しい。端から理解しようなどという気持ちは全くなさそうだ。
  
「……『春琴抄』の装幀のどこがいけないか。どこもみないけないのである。今も言ったとおり、谷崎氏ともあろうものが、こんな装幀に創作同様の苦心を払ったとは正気で考えられない……谷崎氏が、この装幀上に一種の美しさを出そうとした苦心は十分にくみとられる。しかしかなしいかな美しさは工芸としての健全な正しい美しさではない。病的な歪んだ美しさである。むしろそれは醜に境を接するといってもよい。背を黒い布にし、表紙を黒い漆塗りにしたのは、おそらく『春琴抄』の基調となっている盲目の世界への、意識的なあるいは無意識な連想からきたのであろうだ、結果はむしろ櫛凾か針凾に類するものとなってしまった。」と強烈な批判を浴びせ続ける。櫛凾や針凾ではなぜいけないのか、怒りまくっているのはわかるが、あまりに観念的過ぎて寿岳に同調できない。
 
「……かりに全部を黒にするとしても、もっと滋味と美しさと強さとがあって、書物を包むにふさわしい材料は他にも容易にも求められたはずである。私はただ一回、しかも書物をいつくしむ平素の習慣から、きわめててい重に繙讀
したばかりであるが、すでに漆塗りの角々ははがれてボール紙の生地が醜くはみだし、金蒔絵の金はところどころそげ落ちてしまった。」とあるが、書影を見てもらえばわかるように、実は私もほぼ天井に近い本棚の一番上から落としてしまい、背の右側に沿って背布が切れてしまった。それでも、古本屋さんや多くの所有者を経由して、私の元に来たのだと思うが、70年以上経過したのに、全体としてはそんなに痛んではいない。凾もない状態だが、金蒔絵の題字もしっかりしているし、角ははげ落ちてはいない。

書影は、発行以来70年以上も経っている谷崎潤一郎春琴抄』(創元社昭和8年