それでも版画に執着するのはなぜ

 
 答えを出すのは難しいが、勝手な推測をするのは、楽しい。出来ることなら、3人が、抽象版画を始めた頃と同じ気持ちを味わって見たい、なんて考えて、最近は「月映」を手がける少し前の3人に興味を持ち出した。美術学校のアカデミズムに反発し脱出を試みた頃。和田英作への反発は理解できるとしても、夢二への傾倒は何だったのか?
 
 前回までに、恩地を新興美術運動へ引き込んだのは、『三田文学』や『美術新報』が導いたであろう事については見てきたが、3人は、なぜ逆風吹き荒れる抽象版画をえらんだのか、の答えにはなってはいないのではないかと思っている。
 
 世間の批判に立ち向かうかのように版画誌「月映』の発行で彼らが求めていたのは、何だったのだろうか。恩地は、「月映」のあと、萩原朔太郎『月に吠える』など、装丁にも食指を動かす。版画家であり装丁家である2足のわらじが、伝統的絵画に背を向けた恩地が選択した、あらたなステップなのである。この辺にも、抽象版画を選択した答えがあるかも知れない。
 恩地が装丁を始めた動機については、生活の自立をする為などとも言われているが、果たしてそんな世間並みの理由で押し流されて、装丁家への道を選択したのだろうか。
 
 書映は、恩地孝四郎装丁/コロンタイ『グレートラブ』(アルス、昭和5年