見方によっては、でたらめとも思えるような絵画に

いち早く飛びついて、この表現技法を身に付けようと思った事が、恩地の感性の鋭さなのだろう。
  
 事実、大正12年23歳の時にパリへ行った坂田一男の場合は「パリに来てみると、驚くほどの芸術に接するでもなく、意外な土地であり、美術の三分の二は駄作であり、新しい絵といえば、目も当てられぬほど異形変態のものばかりであり、もし、自分がこんな絵を描くようになってしまったら、日本に帰って、どんなになるかと心細く……」(『現代美術のパイオニア』)なっている。恐らくキュービズムを見たのだろう、と瀬木は推察している。そんな坂田もすぐにキュビズム未来派などの影響を受けた絵を描き始める。
  
 このように、画家でさえも最初はしり込みするほどの絵画に、恩地はむしろ共鳴し、日本ではまだ誰も描いたことのない、新しい美術を積極的に取り入れようとしたのである。「三田文学」や「美術新報」に掲載された論文や写真に鋭く反応したのは、恩地の他には恐らく指折り数える程しかいなかったのではないだろうか。