吉川英治『真書太閤記』月報より

昨日に続き、月報からの引用です。
新書太閤記」の新聞連載原稿とりに、そして挿繪の依頼に奥多摩二俣尾駅近くにあった吉川邸へ、挿絵画家・玉村邸のある中野へと走り回った記者・河村英一の思い出話が書かれている文章を月報から引用させてもらおう。


脱線:1953(昭和33)年12月31日に日本劇場で行われた、第4回NHK紅白歌合戦の審査員に読売新聞文化部部長・河村英一とあるが、この月報を書いた若手記者と同一人物か?

河上英一「空襲下の吉野村定期便」(「真書太閤記付録」読売新聞社、昭和40年5月10日)より

昭和19年10月から翌年の3月末に招集されるまで、「新書太閤記」の原稿とりが私に課せられた仕事であった。私はもともと芸能一般の担当記者であったが、戦争もはげしくなって映画は制作3社で月産2本程度となり、大劇場も閉鎖されたし、また文化部に在籍する唯一の若手記者となってしまったからには当然だった。


 私に与えられた最高最大の任務と自負して、妻子を疎開させたあとの小石川(文京区)の自宅から勇躍朝まだきにとび出す。鉄かぶとにゲートルを巻き、肩にかけた雑のうには握り飯2個とイリ米を入れていた。都下・西多摩郡吉野村(現在は青梅市に合併)の吉川英治邸めでおもむくには、途中しばしば空襲警報にあうので、何時間かの浪費を見こさなければならなかったからである。


 山手線大塚駅から新宿で乗り換えて中央線にはいると、中野─三鷹間でまずやられる。電車から降りて退避しなければならない。そして立川から青梅線にはいってヤレヤレと思うと、また立川飛行場付近でやられる場合もある。こうして二俣尾駅から徒歩25分の吉川邸に達する。うまくいって3時間半、ひどい時には5時間もかかった。帰途その原稿を当時のさしえ執筆者玉村吉典画伯に届けるため中野に下車し、前回の原稿とさしえを受け取って夕刻めで帰社するわけだが、原稿が1回分しか書けてない時には、また翌日も吉野村通いをしなければならない。


しかし、この仕事をつらいとも思わず、どうやら最後までつづけられたのは、私の若さにもよるが、ひとえに吉川さんの限りない温情がさせたのである。べつに吉川さんが口に出して私をねぎらうわけではない。私の訪れに示される、なんともいわれないあたたかい受け入れかたには、百万言にもおよばないものがふくまれていた。いや吉川さんばかりではない。ご一家総ぐるみで定期便の私を遇された。


ことに奥さんが、酒好きの私のために、ひそかに地酒などを用意されておられたりすると、私の感動は極限に達する。国民酒場に1時間も2時間も立ちんぼうしなければ一合の酒にありつけぬ時代だったからだ。今にして思えば、吉川家の温情が、はげしい空襲下にも一日も休まず「新書太閤記」を連載させたといえよう。」


河上英一が担当した約6ヶ月とは、玉村吉典が挿し絵を描いた時期だとすると、「男をつくりて」から「騎兵」までの53回ということになる。

落款にも画風や心理状態がでるもので、絵がよくなると落款にも自信がみなぎってくる


玉村が最初に描いたのが、下記の「おとこをつくりて」の挿し絵だ。どことなくぎこちなく緊張しているように感じられる。落款も小さな文字でなんと書いてあるのか判読ができない。この自信なさそうで弱々しい落款をよく覚えておいてください。


脱線:あの大リーガーの松阪でさえ、開幕投手では緊張するらしい。





真中が、途中で落款が変わったときの「中入」の挿し絵だ。硬さがなくなり絵にもどことなくゆとりが感じられるような雰囲気に変わっているのがわかる。
そして一番下が、後から2回目に描いた「序の勝」の挿し絵。落款の変化とともに、いや、絵に潤いが出てくるのと足並みをそろえるようにして落款も風格のあるものに変わり、一番下の絵では、線も柔らかく優雅になり、構図にも躍動感があふれ、落款もふくめ見事な一服の絵画になっている。僅か半年の間に、まるで芋虫から蝶々へとメタモルフォーゼでもしたかのよう見事に変貌している。


「序の勝」を描いたのは終戦の年の3月頃ではないかと思われ、空襲警報や硝煙のくすぶる東京中野区でこんなに穏やかに描いている余裕があったのだろうか、と驚きさえ感じる。