シルクを使った指先官能装丁

昔、コーデュロイ(ベルベット、コールテン)の足袋がとても高級そうで温かそうに見えたが、私は綿の足袋しか履いたことがなく、そんな昔の思い出がコーデュロイへのあこがれにつながっているのだろうか。暖かそうでぬめっとした肌触りの快感があるコーデユロイを使った装丁にも食指が動くが、布を使った装丁の中ではやはりコーデュロイ寄りはやや湿り気を感じるシルクを使った装丁はエロスを感じさせる資材の最右翼といえる。


20世紀初頭の最大の臨床精神医学者の一人といわれるガシアン・ド・クレランボーフェティシズムの女性を診察し、次のようなシルクへの情欲ともいえる貴重な言葉を蒐集している。


ビードロも好きですが、絹には劣ります。サテンは嫌い。ファイユのほうが柔らかいし擦れる音がするので好きです。絹の感触は見た目も素晴らしいけれど、その擦れる音はもっと素敵です。興奮して濡れてきて、もうどんな性的な喜びも比べものにならないくらい」(港千尋『群衆論』リブロポート、1981年)と、シルクのもたらすエロティシズムが赤裸々に記録されている。

妖しくせまるシルクの本2点


森林太郎『雁』(籾山書店、大正4年復刻版)
この装丁は明らかに鷗外がエロチックな装丁を狙ったものである。高利貸の妾・お玉が医科大学生・岡田に恋い焦がれるというストリーで、お玉は主・末造の留守を狙って、思いを寄せる岡田を家に誘い込もうとするがかなわず、恋と自我の目覚めを空しく抹殺されてしまう。そんな明治の女性お玉の燃えたぎる思いを赤いシルクで表現しようとしているのだろう。真っ赤に輝くシルクの装丁には金色の罫が表紙の輪郭の内側に配されただけで、イラストなどが配されていないだけにかえって想像力をたくましくさせる。著者の思いが見事に演出された激しく官能的でエロティックな装丁だ。



シルクの装丁を下着に例えるなら、これこそ正に勝負下着といえるだろう。光をかざすとその光は鈍く高貴に尊く輝く。視覚的にエロスを放出するだけではなく、シルクは触れたときにこそ官能に訴える。このすべすべ感を指先に感じるときには鳥肌を立たせ、後頭部に座布団で殴られたような心地よい衝撃を走らせる。シルク同士が触れ合うときに生じるシュルシュルという響きは五感を刺激し身震いをさそう。そう、シルクににらまれたらもうその場からの逃走は許されない。


三島由紀夫(1925年1月- 1970(昭和45)年11月)の著書にも没後に刊行されたものだがシルクを使った装丁がある。三島は装丁に対してあまり頓着しなかったのか、架蔵書で見る限り生前に発行された三島本の装丁はあまり恵まれていなかったように思える。

三島由紀夫好みの贅を尽くした優れた造本


皮肉にも没後に刊行されたもう一つのシリーズ本、横山明装丁『三島由紀夫短篇全集』(講談社、昭和46年)とが三島本の中では秀逸で三島好みを知り尽くした装丁ではないだろうか。函には銀箔押しの文字が、表紙には空押しの模様が、背には色箔押しがほどこされるという3種の箔押し三昧を取り入れるという贅の限りを尽くしている上に、日本刀を思わせる2種の銀紙の使い分けが巧みで、ぎらりと光る演出は三島が見たら身震いしながら喜んだのではないかと思われるほどに三島好みを表現しているように思える。イラストレーターでもある横山が得意とする精密なイラストを封印しての装丁にも隠れたぜいたくを感じないわけには行かない。


三島由紀夫天人五衰』(新潮社、昭和46年)
三島由紀夫暁の寺』(新潮社、昭和46年)
三島由紀夫奔馬』(新潮社、昭和46年)
三島由紀夫『春の雪』(新潮社、昭和46年)




シルクの本は眺めているだけで気だるく倦怠感を催す魔性の資材だ。


皮のボンテージとシルクのガードルが女性の魅力を演出する道具としてのイニシアティブを争っているように、書物の世界でも革装と布装は長い間ヘゲモニー争奪戦を続けている。