挿絵雑誌「えくらん」創刊号〜5号が届く

挿絵雑誌「えくらん」創刊号〜5号(えくらん社、昭和34年〜35年)が届いた。
 創刊号は当時の人気挿絵を並べて掲載しているだけだったが、号を追うごとに企画も充実し、管見する限り5号以降をみたことがないので、5号で休刊になってしまったのではないかと思われる。5号の奥付に「本誌は特種な雑誌なので一般書店に配布されないことがあり、なるべく本社直接お申込いただきたい。この場合送料は本社負担。」とあるので、私家版だったことも考えられる。通巻5号で休刊に至った背景には何があったのか? 何かが隠れていそうな雰囲気があり、急に興味が湧いてきた。

挿絵雑誌「えくらん」創刊号、2号(えくらん社、昭和34年〜35年)



挿絵雑誌「えくらん」3号、4号(えくらん社、昭和34年〜35年)


創刊号の奥付には「今月号の執筆者は
西原比呂志(出版美術家連盟理事・新協美術会々員・日本童画会々員)
加藤敏郎(出版美術家連盟会員)
久比佐夫(出版美術家連盟理事・新協美術会々員・白山会々員)
花房英樹(出版美術家連盟理事・新協美術会々員)
中沢 潮(エコールド・トーキョー所属・第二紀会所属)
宗 阿弥(新エコールド・トーキョー所属・二科会所属)
田代 光(*出版美術家連盟会員)
の諸氏である。」と、寄稿者を紹介している。(*は、大貫が加筆)
 ちなみに、西原は信州一味噌のキャラクター「み子ちゃん」の製作者として知られている。


 これ等の肩書きだけをみる限り、新協美術会と出版美術家連盟との両方に所属している画家であり挿絵画家でもある3人(西原、久、花房)が中心になって編集を始めたではないかとおもわれる。
 表紙絵は西原と久が交互に描いていることや、巻頭カラー口絵も3人(西原、久、花房)が担当していることからも3人が中心になって制作していたであろうことが容易に推察できる。


しかし、挿絵雑誌と謳うにはこの3人では挿絵画家としての知名度が低く弱いので、当時、活躍していた挿絵を専門とする出版美術家連盟の加藤敏郎、田代光が誘われたのではないだろうか? というのが私の仮説だ。
 第2号ではさらに出版美術連盟をも取り込んでいこうとしているのではないかと思われる33頁にわたる特別企画「第6回出版美術祭特集」がある。 


 通巻2号「第6回出版美術祭特集」は、現在私が所属している日本出版美術家連盟が改名する前の出版美術家連盟の展覧会で、志村立美、小島功、中一弥、田代光、加藤敏郎、鴨下晁湖、針すなおなど30名の34作品が掲載されている。ちょうど連盟の年表を作ろうとしていたが、このころの資料がなく手を焼いていた。そんな空欄を埋めてくれる貴重な資料となるに違いないとおもい、興味をひかれた。

「第6回出版美術祭 田代光」40-41p(「えくらん」昭和35年1月号)



「第6回出版美術祭 中一弥、加藤敏郎」42-43p(「えくらん」昭和35年1月号)


特集の最終頁には、ばらん・ざっく「第6回出美祭」と題した受賞作品評があるが、このふざけた名前の「ばらん・ざっく」とは誰なのか? 作品評は本来実名でなすべきではないかと思うのだが。この辺が、どことなくうさんくささが感じられるところだ。
 確証はないが、西原か久が書いたものと思われる。後日、全文を掲載しようと思っているが、上から目線のかなりきびしい物言いだ。


奥付には「三越で催された第六回出版美術祭はなかなかの盛況であった。大衆のための美術であることを如実に裏書した多数の観覧者で、伊勢湾台風災害地見舞の色紙揮毫もかなり希望者があったようである。本誌に掲載した色紙はそのときのものの一部であるが、特集図集と併せてごらんいただきたい。」と、


挿絵雑誌「えくらん」創刊号(昭和34年11月)の目次を見ると
「東京百景」
「テーマ作品 太宰治人間失格”」
「女性を描く」
「えくらん画廊・加藤敏郎個展」
「デッサン・田代光ほか」
「名作挿絵・木村荘八
などなど、この雑誌の企画ために描きおこしたと思われる作品も多く編集者・寄稿者たちの力の入れようがうかえる。


加藤敏郎:画、大宰治「人間失格」(「えくらん」創刊号、昭和34年)



木村荘八:画、大佛次郎「霧笛」(「えくらん」創刊号、昭和34年)


 「えくらん」の創刊より少し前に日本出版美術家連盟の若手挿絵画家たち13名によって創刊された挿絵雑誌「さしゑ」がある。「さしゑ」創刊号は昭和30年4月に刊行され、昭和31年10月に刊行された通巻5号以降休刊になっている。
 この2誌に直接的な関連性があるとは思えないが、どちらも出版美術家連盟(現・日本出版美術家連盟)の会員達によって制作されており、加藤敏郎や田代光は両誌の制作にかかわっていた画家がいるなど、両誌の共通部分も見受けられるので、継続誌としての意識があったのか、それとも対抗誌として作られたのか、その辺にも興味があった。
(昭和23年の出版美術家連盟(現・日本出版美術家連盟)設立当初から会員であり、「さしゑ」を編集した13名の挿絵画家の一人でもあった濱野彰親さんに、昨日電話で当時の事を聞いてみたが、「えくらん」が刊行されていたことは全く知らなかったし、今まで一度も目にしたこともないという。)