高橋忠弥の芸術論2

前日の新聞記事のタイプアップ続きです。

日本画壇の偏向

司会 抽象絵画についていえば一般人から最近の絵画は難しいとかわからないとかいう声が強い。しかもこれはどうも絵かきの方にもそれをいわせる原因──絵かき自身に本当の意味の抽象絵画がかききれてないということなどにも問題はあるように思えるのですが。


高橋 そういうことは言えると思う。そして日本の場合だけいえることかも知れない。日本にも戦前に抽象絵画というものはあったのだが、戦争で中断されてブランクがあった。そこに終戦後おもちゃ箱をひっくりかえしたように一度になにもかもなだれ込んできた。それで画かきと惑ってなんでもかんでも外形から入っていった。そういうところじゃないかナ。しかし画壇だけの問題じゃなくて日本文化についてもいえることかも知れない。政治革命はあっても、本当の文化革命というのは弘法大師のいりは運動とか田山花袋自然主義運動位しかないのだから。別の言葉でいえば日本に啓発期のなかった悲劇だ。アブストレーといってもこれはまねをすればすぐできるものだ。しかし今の日本には本当のアブストレーはない。ほとんどが具象絵画だ。


風景と県民性


司会 お二人の絵を見ていての感じですが、暗色の濃い点だとかモチーフに非常にファンタジックな感じがする点、その辺に何か共通した東北的な感じもするのですが。


高橋 クリーマー、風土性の問題というのは近代絵の反省といおう意味でも重大なんだが─自分の絵についていえば、第一に色だが、色には色自体の持っている性格があると思うんだ。だからウルトラ・ロリン(*マリン?)とかs,オリエンタル・グリーンとかを寒い色といったりするんだが、それは単独でそうなんじゃなくて、他の色との比較、となり合わせの意味でのことだ。固有の色には寒さというものはないと思うんだ。僕はこれまでの色にいわば逆説的にいどみかかっているつもりで、極端な配色を試みている。しかし、沢田君と共通するものがあるとすれば、それは絵画意識がきょうつうするんじゃないかな。


沢田 しかし食物がにているしいくらかの関係はあるだろう。フランスの画かきでも南仏に行ってかけば非常に明るい絵になったりするから、環境によってかわることもあるんだろう。


高橋 それに共通するものがあるとすれば、絵かきの人間性だろう。盛岡の文化というのは、いりんなものが混濁しているんだナ。しかし来たの人間がすでに北方的だといえない実例に、独立賞をもらった佐々木弘君は実に南方的な絵をかいている。


次回につづく