明治29年は、黒田清輝が洋画界への地歩を確立し、東京美術学校西洋画科が開設され指導者として迎えられ、明治美術会から離れて白馬会を結成し主宰した年である。また、フランスから帰朝した久米桂一郎や長田秋濤などが、フランス文学と美術の移植をめざした文芸雑誌「白百合」を、久米の案で青地にフランス国家の紋章である白百合を描いた高雅な表紙を着せて創刊。同年、洋画家・浅井忠の石版画「樹陰双美の図」を口絵として中村不折や川村清雄のさしを挿入した「新小説」が創刊し、洋画家による挿絵が雑誌に掲載されるようになった。


新聞や雑誌に洋画風挿絵が掲載されるようになったことについて正岡子規は「松蘿玉液」に、
「小説雑誌新聞の挿絵として西洋画を取るに至りしは喜ぶべき異なり。其の喜ぶべき所以(ゆえん)多かれど、第一、目先の変わりて珍しきこと、第二、世人が稍々西洋画の長所を見とめ得たること、第三、学問見識無く高雅なる趣味を解せざる浮世絵師の徒が圧せられて、比較的に学問見識あり高雅なる趣味を解したる洋画師が伸びんとすること、第四、従来の画師が殆ど皆ある模型外の事が之を画く能はざりしにはんし如何なる事物にても能く写し得らるべき画風の流行すること、第五、日本画が好敵手を得たること等を其主なるものとす。」(「日本新聞」明治29年10月22日)と評価している。