伊藤彦造(いとう ひこぞう、1903年-2004年9月9日)大分県大分市出身。剣豪、伊藤一刀斉の末裔に生まれ、自らも剣の師範。彦造の父は、中里介山が『大菩薩峠』を書くにさいして、一刀流の極意を教え、それが机龍之介の剣になった。東京朝日新聞の給仕となり勤務中に同社の専属挿絵画家右田年英に風俗画(イラスト)を学び、京都大学で関保之助に有職故実を学ぶ。結核を患い、京都に帰省して両用し、その間に画家を目指し日本画家の橋本関雪に師事する。



挿絵:右田年英



挿絵:橋本関雪。関雪は1904〈明治37〉年、日露戦争開戦とともに、洋画家・山本芳翠、北蓮蔵、石川欽一郎、日本画家・村田丹蔵、寺崎広業、久保田金遷などと従軍画家として参戦、『ほかに「戦時画報」からは、小杉未醒が派遣され従軍した。


彦造は大正から昭和にかけて主に挿絵を描き活躍する。1925(大正14)年1月、「大阪朝日新聞」連載の番匠谷英一の戯曲「黎明」の挿絵を描いたのが処女作で、1925(大正14)年に、行友李風の小説「修羅八荒」の挿絵で評判を得、22歳という若さで挿絵画家としての地歩を築いた。剣の世界を躍動感あふれる筆致で描き、美貌の剣士が活躍する冒険活劇で人気を確立した。



挿絵:伊藤彦造行友李風「修羅八荒」(朝日新聞、1925〈大正14〉年)



挿絵:伊藤彦造行友李風「修羅八荒」(朝日新聞、1925〈大正14〉年)