鎌倉時代の板碑(いたひ)3基

【しん散歩(10)…鎌倉時代の板碑(いたひ)3基】



・写真左=延慶年間(1308〜1311)の板碑、宮山出土。
・写真中=応長元年(1311)の板碑、大門出土、如意輪寺所蔵
・写真右=文保元年(1317)の板碑、上宿出土。


 西東京市市内で発掘された板碑は40数基あると思いますが、網羅された一覧表は見当たらず、公表されたものではなく私が数えた数字です。墓地にある板碑は見学することができますが、寺院や個人所蔵が多く見ることが難しいものも多い。
 西東京市郷土資料室に保存されている谷戸(宮山)から出土した「延慶の板碑」(写真左)と呼ばれる鎌倉時代の石の板(板碑)がありますが、これは誰でも見ることができます。。鎌倉時代の板碑はそのほか大門出土の応長元年の板碑(写真中)や、上宿出土の文保元年の板碑(写真右)があります。
 これらの板碑が出土した場所は北原上宿地下水堆の真上にあり、地下水位が高い谷戸や、ここから流出する小水路周辺に、古来から、ごく小さな集落があっただろうことを示しています。


◉板碑…板石塔婆,青石塔婆ともいう。主として供養,追善のために,種子 (しゅじ) あるいは仏,菩薩の像,供養者,造立年月日,趣旨などを表面に刻した板状の石碑。多くは高さ 1m内外,上頂部を三角に加工し,その下に2条の溝を入れている。その祖型は修験道の碑伝 (ひで) ,あるいは五輪卒塔婆に求められている。ほぼ 13世紀前半から 16世紀末にわたって製作され,全国に分布しているが,関東地方に特に多い(『ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典』)。


写真がみんな黒っぽいのは、石碑などの文字は写真だと読みにくいので、石碑に紙をあて、墨を使って、そこに刻んである文字・模様をうつし取る「拓本」にとります。試しに写真左の「延慶の板碑」の実物を撮影してみました。典型的なものとしてイメージされる武蔵型板碑は、秩父産の緑泥片岩を加工して造られるため、青石塔婆とも呼ばれる。文字は読みにくいが、この色も板碑の特徴なんですね。


昨日(2018.9.10)は、西東京市「公民館だより」の編集者の皆さんと、下保谷の大泉堀(だいせんぼり)やソッコウ台墓地の板碑などを探索してきました。ソッコウ台墓地、大泉堀からは、14基の板碑が発掘されているようですが、今回は7基の板碑を確認することができました。資料によると「上限(一番古い)は文明5年(1473)で、以下文明10年、明応7年(1498)などがあり、文明5年〜明応7年の25年間に集中しており、時代は戦国時代初頭から前半の造立」のようです。大泉堀、ソッコウ台では、15世紀後半の15年間に集中するという頻度からみて、この時期には耕地を持った百姓の集落が形成されていたはずであり、その場所は下保谷窪地の坊ヶ谷戸の一帯であったろうと推察されます。



これは、拓本にとれば年代がわかりそうです。


これは「地下水面の海抜高度」地図です。地下数位の高いところには水が出やすく人が住みやすい、ということか? それぞれの土地の標高からこの地下水面の海抜高度を引き算するとその辺りの井戸の深さが分かるのだと思う。この地下水面の海抜高度が板碑の出土場所と関連しているのが面白いです。


こちら「窪地と地下水の浅い地域との関連」地図。つまり、この地図の左下にある餅網のような部分が、上の地図の地下水位の高いところというわけですね。このように地下に水が溜まっているような場所を「地下水堆(ちかすいたい)」っていうのだそうです。西東京市ではこの地下水堆の真上から多くの板碑が出土しています。


突然、話は第三の川・石神井川に移りますが、実はこの稿を書いている時に初めて知ったんです。こんな大きくて完全な板碑が西東京市で発掘されていたなんて、ついさっきまで知りませんでした。120×30cm、出土場所は石神井川沿岸の早大グランド。1987年〜94年にかけて発掘調査をした時に、思いもよらなかった中世の大遺跡が出土したのだそうだ。東伏見駅南から早大グランドあたりから、計4基出土している。この板碑はどこにあるのだろうか、見てみたい! こんな重要な資料がなぜ西東京市資料室に展示されていないのでしょうか?


西東京市市内で発掘された板碑で、制作年代がわかるものだけを発掘された場所ごとにまとめ、市内を流れていた3本の川(大泉堀、新川、石神井川)のどこの川の近くで発掘されたのかがわかるように、表にしてみました。石神井川沿岸から発掘されt板碑は、数が多いわけでもなく、一番古いわけでもなく、微妙な位置にいます。そんなことが今まであまり注目されなかった理由なのかもしれませんね。


表を眺めてみると、西東京市で一番古い板碑が見つかっているのは、今の所、新川の上流あたりで、鎌倉時代の終わりころ、ということが一目でわかりますす。大量に板碑が見つかっている大泉堀(栄町、北町、下保谷)周辺は、室町時代(1335〜1537年)中でも戦国時代と言われる1467年(応仁の乱)あたりから人がたくさん移住してきたのではないかと思われます。石神井川周辺(早稲田大学グランド)からも数は少ないですが、平安時代南北朝時代の板碑が発掘されています。これから川の下流に当たる練馬区や東久留米の南沢あたりの板碑と比較すると、西東京市の祖先が住んでいたころの様子がわかってくるかもしれませんね。写真は、市内で発見された板碑のうち、主に年代がわかっていて、拓本に取られているものを集めてみました。


お隣の練馬区では石神井図書館強度資料館編『練馬区の板碑』(練馬区教育委員会、昭和50年3月)、A5判144Pを刊行している。練馬区には224基の石碑が発掘されており、そのうち172基が、石神井川と白子川流域にある寺院に収められているという。西東京市との関係を調べるには好都合合なデータだ。それにしても練馬区が羨ましいです、こんな立派な拓本板碑集が作られているとは!


「板碑の分布」+「板碑の所在地」(共に『練馬区の板碑』に掲載)を一つのデータに合体させ、どの地域にどのくらいの数が発掘されているのかがわかるようにしました。白子川(大泉堀)沿いの妙福寺53基、石神井川沿い三宝寺38基をそれぞれの川の筆頭として、データを取るには十分な数が発掘されているのがわかります。そして、新川が、鎌倉時代室町時代ころは練馬区には繋がっていないのがわかります。


写真上は白子川沿いの寺院・妙福寺(練馬区)が所蔵している板碑です。写真下は、石神井川沿いにある三宝寺(練馬区)が所蔵している板碑です。それぞれのお寺が所蔵している板碑は、ほぼこの2種の板碑と似た様式のものです。写真上のような板碑を題目板碑と呼ばれ板橋区にある板碑の26パーセント強が、このパターンです。妙福寺を中心とdして日蓮宗の寺院が大きな勢力を持っていたことがわかります。写真下は、弥陀板碑とよばれ板橋区にある板碑の38パーセント弱が、これと同じような様式です。一般的に弥陀の信仰は浄土宗関連のものと思われていますが、石神井川沿いの寺院は真言宗の寺院です。つまり、板碑の造立者は自分の宗派的思考にとらわれず融通性のある立場で造立していると思われます。この地域では、浄土宗の信仰ではなく真言宗の信仰に弥陀の種子が多くつかわれており、練馬の板碑の得意な特徴であると思われます。