アール・ヌーヴォの日本への伝達は、1900年に開催されたパリ万国博に参加した黒田清輝や浅井忠、そしてちょうどその時にロンドン留学しており、万国博会場に足を運んだ夏目漱石たちによって持ち帰られたものと思っていたが、大きな勘違いのようだった。それ以前から日本にアール・ヌーヴォーは伝わっており、パリ万国博にはアール・ヌーヴォーを取り入れた作品が、日本からも出品されていたという。由水常雄『花の様式 ジャポニスムからアール・ヌーヴォーへ』(美術口論社、昭和59年)の主張に、耳を傾けてみよう。


「この時(*パリ万国博)出品された日本の美術工芸品は、評価・批判が相半ばする結果となった。たとえば、出品物の形態や文様等が類型化している点、機能性が充分に考慮されていない点、また値段が高価にすぎ、審査員がいずれも驚嘆するという批判が続出した。とりわけ万国博関係者たちは、値段の高い品を『プリー・ジャポネ(日本値段)』と呼んで揶揄したという。


……非難を受けた問題点としては、すでに流行していたアール・ヌーヴォー様式を模倣した作品が数多く見られたこと、日本の独自性を失ったヨーロッパの亜流的な傾向が出たことであった。一九〇〇年万国博は、ジャポニスムからスタートしたアール・ヌーヴォーが高度の円熟期を迎え、いわゆる独自のアール・ヌーヴォー様式を完成した時期であった。


そのアール・ヌーヴォーの動向に影響を受けて、従来の伝統的表現形式を変形させた日本の美術工芸品が、成長し切ったアール・ヌーヴォーの渦中に参加したのであるから、それを受け入れた側も、参加した側にも奇妙なとまどいが生じたのは、けだし必然であっただろう。ヨーロッパの識者の間から、日本美術への批判や非難が生まれてきたのも、こうした背景があったからであった。


アール・ヌーヴォーと日本美術との交渉も、この一九〇〇年パリ万国博を境として、事実上消滅し、逆にアール・ヌーヴォーの日本への浸透が始まってゆくことになるのである。」と、アール・ヌーヴォーを取り入れた作品を既に作っていたということは驚きでもあった。パリ博は日本美術の西欧への影響の終焉のを告げる宴でもあったわけだ。



1900年パリ博における日本の展示光景



1900年パリ博における「日本の茶店」オルセ美術館図書館、1900年



博覧会のアトラクション「世界一周」の日本風正門は、M.オシノの指揮の下に日本人大工たちによって建てられた。


「ヨーロッパの伝統を母体として、東洋の血を受け容れたアール・ヌーヴォーは、そのどちらの系統にも所属しない新しい造型となって、いわば最初の国際様式となって、激しい生命の息吹きを発して急成長した、はかない花の生命であり、花の様式であった。


まさにそれは世紀末の申し子であったといっていい。過去を断ち切って、現代の橋渡しを行い、既往の世界からあらゆる非難と中傷と拒絶をあびながら、そして次代の若い世界から喝采を受けながら、死んでいった象徴的な美術運動であった。


このような生まれるべくして生まれた新しい造型運動が、しかもその中に何がしかの日本の血をたぎらせていたその運動が、わが国の人びとのこころにとまらないはずはなかろう。すでに一九〇〇年パリ万国博において、わが国から出品した多くの工芸作品──陶磁器、青銅器、染織品、等々──の中に、アール・ヌーヴォー様式をそのまま反映させた作品が出品されていた。


フランスの批評家たちは、そうした作品をみて、日本の美しい伝統工芸がスポイルされてゆく状況を憂え、当時のヨーロッパの様式に追従することの悪弊をいましめる評論を、すでに発表していた。


たとえば陶磁器の分野では、香蘭社は以前の伊万里の伝統を離れて、ヨーロッパ・モチーフを使った流動曲線の文様や器形の西洋食器を出品していたし、鹿児島の沈寿官のような三百年の伝統をもつ陶工さえもが、蝶をモチーフに使った完全なアール・ヌーヴォーの器を出品して賞を与えられていた。


しかしそれらの輸出工芸品は、われわれ日本人の目にふれることも稀であり、日本美術への影響はむしろほとんどなかったと言っていい。アール・ヌーヴォーの日本への回帰は、やはり、パリに渡った日本の文化留学生たちの帰国によって持ち帰られた造型であった。


……わが国へのアール・ヌーヴォーの回帰は、明治三〇年代中ごろに端を発して大正年間に、アール・デコと混淆するようなかたちで、一つの流行を見せるのであった。ただヨーロッパのアール・ヌーヴォーが、過去との断絶、伝統と文化との訣別を示した非伝統、歴史の連続性を断った負連続性をもって、明白に、現代への志向を見せていたのに対して、日本に回帰したアール・ヌーヴォーは、伝統を断つこともなく、歴史の流れから外れることもなく、したがって、既存の造型美術の世界に強いインパクトを与える力もなく、舶来文化の一現象として終ってしまった。


……工芸の分野では、これといって明白な影響のあとをみせるものは少なかったが、それよりもやや遅れて留学した石井柏亭や岡田三郎助のような該博な知識もった画家たちの帰国によって、わが国の工芸界もヨーロッパのアール・ヌーヴォーの動きが十分に紹介されるようになって、それへの関心が高められていった。それはちょうど、イタリアやドイツと同じように、そしてその両国よりもさらに遅れて、すでに本家本元のフランスやベルギーで、アール・ヌーボーが退潮し、てしまった後の一九一〇年代後半期から一九二〇年代にかけての現象であった。


いわば、伝統文化のヌ強い国ではあっても、よどんだ伝統のしがらみを切り捨て、古い体質の社会習慣を洗い落として、新しい時代への脱皮を遂げようとして、懸命に努力していた当時の日本の状況の中でさえ、それは力強い現代志向性を持ち得ず、いわば伝統文化の装飾といった程度の現象に終ってしまったのである。」由水常雄『花の様式 ジャポニスムからアール・ヌーヴォーへ』(美術口論社、昭和59年)