6P程の話に、一人のさし絵家が描いたものと思われるが、落款が3種あり、おまけに名前の特定が出来ないというパズルのような難問にぶつかってしまった。


『修養全集』第2巻(「東西感動美談集』、大日本雄弁会講談社昭和3年)に掲載されたもので岸井新「喪服の遺臣」の挿繪。タッチを見ると同一人物の挿繪であることは間違いないように思える。登場順に3つの挿繪を並べてみよう。





一番上の落款は解読不能です。
二番目の落款は「とち」ではないかと思える。隣の「Y」のような文字は不明。
三番目の落款は「Nagatoti」のように読める。


そして、これらの落款のさし絵家だと思われる名前は「永地秀太」しかない。よみかたは「ながち ひでた」であろう。目次に記されている30名のうち、活字で名前が記されているが落款が見当たらないのは、ほかには須藤しげる、金子士郎だけだ。

解決しました〜ぁあ。ネットで検索してみたら「永地 秀太」はなんとなんと「ながとち ひでた」だった。「きいてみなきゃ、わかんないね〜」(東京凡太ふうに)アルファベットの落款も「とち」の落款も「永地」のものだったことがわかった。「Y」の字の見えたのは「永」ではないかと思われ、一番上の解読不明の文字は「地」と読む事が出来るので、これにて一件落着!!

永地 秀太 (ながとち ひでた)1873-1942 山口下松市生。旧姓は有吉。徳山中学卒後に上京。本多錦吉郎や松岡寿に師事。1892-94年明治美術会付属教場に学ぶ。1902年太平洋画会の創立で中心的役割を果たす。以後同展に出品を続ける。1909年文展褒状、1913年文展で三等賞。1920-23年文部省在外研究員として渡欧。帰国後、東京高等工芸学校の教授となる。1924年フランスのサロンに貢献したとし、レジオン・ドヌール勲章を受ける。1924年から帝展では審査員を務めた。