小田富弥・石井朋昌:挿絵、一龍斎貞:出演「赤穂義士本伝」(『講談全集第三巻』第日本雄辯講談社、昭和4年1月5日)挿絵15点を紹介ます。
講談とは、「起源は
宝永年間には公許の常設小屋で上演されるようになり、「講釈」と呼ばれるようになった。文政年間には話芸としてほぼ確立し、幾つかの流派が誕生した。他の芸能との交流も進み、講釈での人気演目が歌舞伎や人形浄瑠璃化されることもあった。明治時代以降、講釈は講談と呼ばれるようになった。
江戸末期から明治時代にかけて、講談は全盛期を迎えた。「泥棒伯圓」とあだ名された二代目松林伯圓が出、明治政府より教導職を賜るのもそのころである。明治末期には立川文庫など講談の内容を記載した「講談本」が人気を呼んだ(その出版社の中に、講談社がある。講談本の成功ですぐに大手出版社になった)。また、新聞や雑誌に講談が連載されるようにもなった。しかし、明治末に浪花節、昭和に入っての漫才など他の人気大衆芸能の誕生、大衆メディアの発達など(「講談倶楽部」の臨時増刊「浪花節十八番」刊行に関するトラブルに象徴される)に追いつけず、次第に衰微していった。第二次大戦後はGHQにより、仇討ちや忠孝ものが上演を禁止され一時は大きな影響を受けた。その後テレビの普及によりやはり衰退を続けた。」(『ウィキペディア(Wikipedia)』より。
講談全集とは、「講談社は円本ブームが下火になりかけた昭和3年(1928)10月、御大典(昭和天皇の即位礼)記念と銘打ち『講談全集』(四六判、1200ページ、全12巻)と、『修養全集』(四六判、800ページ、全12巻)を各巻の定価1円で刊行した。
目をむくような安さである。こんなに安い本が売れないわけがない。清治はそう考え、両方ともに各巻100万部以上の売り上げを目論んだ。
ところが、あまりの安さに各地の小売店が悲鳴をあげた。安ければ、たくさん売れるから小売店も喜ぶにちがいないというのは、販売現場を知らぬ者の考えである。重くて分厚い円本は、ふつうの小説本より運賃(当時は小売店側が負担した)がかさみ、その分、利益が出ない。
おまけに、他社の円本は小売店からの申し込みを受けて配本されていたが、講談社の円本は申し込みを待たず、取次の見計らいで小売店に送りつけられた。小売店からすれば、申し込んでもいないのに運賃小売負担で全集がどんどん送られてくる。ただでさえ円本洪水にげんなりしていた小売店の不満が一気に噴き出した。
なかでも反発が強かったのは大阪である。大阪は東京の元取次から直接送本を受ける店が少なく、在阪の中取次(元取次と小売店の間に介在する業者)を経由する店が多かった。その分、中間マージンがかさみ、ただでさえ正味(=販売定価に対する卸値の割合)の高い講談社の全集は、売れば売るだけ運賃がかかって儲けが吹っ飛び、かえって損をしかねなかった。」(魚住昭「大正時代の日本を席巻した『全集ブーム』が生み出したもの」より)