西東京市・富士町交差点にあった田柄用水の水車跡を探す

【しん散歩(14)……田柄用水、富士町交差点の下田水車】

 ちょっと見ずらいですが、練馬区に入って富士街道を走る田柄用水の地図です。左端の真ん中あたりの薄い色の点線が田柄用水です。西武池袋線のとことからくねくねと北進しています。その後田柄川に合流し、さらに石神井川に合流しているようです。田柄用水と田柄川の合流点は見ましたが途中は追いかけていません。西東京市市内は富士町交差点のあたりで、水路跡が消えてしまいます。



私が毎月消しゴム版画を教えている教室・縁屋さんが入っている「マックコート東伏見」があるあたりに、田柄用水にかけた水車があったらしいという話を聞いた。今まで田柄用水(西東京市市内)にかかっている水車は田柄用水が田無水から分岐するすぐ近くにあった山上の水車(旧田無市)しか知りませんでした。

山上の水車と本家の水車(下田家)(『田無のむかし話』西東京市中央図書館、昭和55年)。



田無町3丁目、田柄川と山上の水車があったあたり。北から南を撮影。奥の突き当たりが、田無用水との分岐点。



暗渠になってしまった田柄用水と田無用水の分岐点。写真上に向かうのが田無用水、左に曲がるのが田柄用水。



もう一つの「富士町の下田家分家にあったとされる水車」跡を探してみようと思います。


富士街道を探索中です。水車はまだ見つかりませんが、富士街道沿い「けやき憩いの森」(東京都練馬区石神井台8丁目21番)には、約47メートル、上幅約4メートル、素掘りの用水堀で当時架けられた石橋もあり、田柄用水が残されているようです。何度も脇を通っていますが中に入ったことはありませんので、チョット仲間で踏み込んでみます。



滝島 俊さんからのコメント…… ロイヤルホストの向かいですね。ここだけ一瞬富士街道から外れて敷地の中を通り、90度向きを変えるんですよね。


またまた不思議なクランク迂回ですね。


滝島 俊さんからのコメント…… 富士町の下田家水車の次には、櫻井水車(南大泉1丁目)がありました。田柄川用水にも多くの水車がかかっていました。けやき憩いの森には水車があったという記録はありませんが、何らかの意図がある水路でしょうね。

櫻井水車があった櫻井商店。今は水車はありません。


松崎 博さんからのコメント…… 田柄川・田柄用水についての千葉大学の井上さんの研究があります。https://core.ac.uk/download/pdf/97062769.pdf


山下 昭夫さんからのコメント…… 松崎さん 教えて頂いた千葉大井上孝夫教授の研究を拝見しました。私も練馬区関町出身ですが田柄川の存在は知らなく(現在は練馬自衛隊付近から緑道で城北中央公園へつながっているらしいですね)参考になりました。論考文書の参考文献一覧の中で、田無から練馬への水路については平田英二氏の論考『ねりまの文化財59』2頁「田柄用水の謎」が詳しいようです。


滝島 俊さんからのコメント…… 山下さんありがとうございます。
「けやき憩いの森」は本橋家の野菜洗い場のための引き込み水路だったんですね。

葉っぱに埋もれて、昔の石橋がありました。練馬大根の産地でしたので、多分練馬大根を洗っていたのでしょうね。



練馬区の田柄用水は、あまり考えたことがありませんが、田柄用水や、板碑など、練馬区の関連性を考えないわけにはいかなくなってきました。市内探索のつもりが、ありがたくもどんどん範囲が広がっていきます。


山下 昭夫さんからのコメント……田柄用水は練馬区なので西東京市関連部分だけに限れば「富士町交差点」近くの下田家分家「水車」の存在が気になり得意のランニングで現地調査しました。そこでコメダ珈琲富士街道を超えた北側の都営団地付設の小公園がその跡地では?と考えました。北隣は下田家ご子孫とおぼしきお屋敷です。痕跡未発見等エビデンスに欠ける推量ですが唯一の根拠は地図黄色枠にあった小暗渠でГの形で小公園方向に流れ途切れていました。初心者ゆえの浅慮推量ですがどうでしょうか?


明治39年の地図を見る限りでは、関道を横断した田柄用水はそのまま富士街道に平行に北東にビル一つ分くらい進んで、その後は富士街道の北側に戻りそのまま現在駄菓子屋さんがあったあたりまで進んで、小さな交差点からは富士街道の南に位置を変更しています。もしも富士町交差点の近くに水車があったとするならば、現在交差点にあるマンションのあたりか、あるいは、富士街道の北側を流れている場所だと思われます。

高塚の交差点より東側は大泉村ですので、この地図の範囲で水車が記されているのはとりあえず大泉村ですね。明治39年の富士町交差点には水車はなかったようですね。


田柄用水にはこんなにたくさんの水車があったんですね。田無・山上の水車も田柄川沿いの水車だと思いますが、保谷・田無の水車が練馬に比べて少ないですね。

「ねりまの文化財」(平成16年〔2004〕)より。


この地図を見る限り、山下さんがおっしゃっている「下田家の水車」は富士町交差点のあたりで田柄用水が富士街道からそれた部分にあったように見受けられます。もう少し正確な地図があれば水車があった場所がわかるんですが…。


滝島 俊さんからのコメント…… 田無分水口から富士街道までの流路は、比較的複雑な経路ですが、基本は「用水は背を通す」で標高の高い所をつないでいます。富士街道に出てからは、元の地形の標高差を利用して、石神井公園駅手前までほぼ道路沿い(北岸や南岸に沿って)流れていました。下田家水車の推定地ですが、富士街道と関道の交差点(昔は新青梅街道が無かった)付近と思われます。
殆ど富士街道に沿って流れていた用水が、この交差点で凸状にクランクするのは不思議ですが、この角に「百札所巡礼成就塔」(造立寛政四年1792年)が建っており、願主に下田家もいます。
もしかしたら、この石碑を回避するために流路をクランクさせ、ついでに下田家の敷地を通し、そこに水車を作ったのかも知れませんね。分水したとしても水車はあまり用水本流から離さないと思います。おそらく本流に架かっていたとしたら、今の縁屋さんの裏側あたりから、富士街道の本流に戻るあたりでしょうかね?


滝島さん ありがとうございます。「百札所巡礼成就塔」が立っていた場所も下田家のようで、新青梅街道ができる前の縁屋さんが入っているビルの土地所有者がわからないかなと思います。もう少し調べれば分かりそうな気がします。そういえば、版画教室のビルのオーナーだという女性が一度来たことがありました。何かを聞けるかもしれませんね。


滝島 俊さんからのコメント…… 現富士町1丁目15番地に有ったとする記述がありますので、関道より東側(縁屋のビルがある側)だろうと思います。
候補地としては、縁屋さんのビルの東隣の「ハイツ・ユー」か「グレースハイツ東伏見」のあたりかと思っています。


松崎 博さんからのコメント…… Shinju Oonuki さん、いやはや 田柄用水にかかっていた水車の図とは。未だ見ぬ資料を色々見つけてきますね。

まさか田柄川にこんなにたくさんの水車があるとは考えてもいませんでした。西東京市には、2箇所しか確認されていないので、それより下流では水量が少なすぎるのではないかと思っていましたので。水車の建造年は調べていませんが、明治26年、田柄用水の増水工事で水量が大幅に増えたことも、田柄用水に水車がたくさんある一因かと推察しています。


これは、「多摩川上水分水路北多摩郡保谷町大字上保谷字関道九百十三の弐の土地に水車新築営業被成旨に就ては……大正四年三月拾七日」と、富士街道沿いの関道913の2の土地に水車営業を認める証文ではないかと思われます。


関道913の2の場所を探してみました。赤丸部分が水車があった場所ということになります。現在、関道と富士街道とに挟まれた北の角の部分で、マックコート東伏見、グレースハイツ東伏見あたりに位置しています。

昭和13年の『保谷土地宝典』


滝島 俊 やはりここにあったんですね。ちょっと意外だったのが、関道沿いにもちょっとだけ流路があることです。明治39年の地図と若干異なるように見えます。(富士街道に戻るのが交差点に近い)この地番図を見ると、もしかしたら水車を作るために、流路を変更し、913の土地を913−2に分筆したのかもしれませんね。


先ほどの地図は昭和13年の『保谷土地宝典』ですが、この昭和37年発行『上保谷西武線北部住宅地図』では、新青梅街道ができて、水車は無くなり、313-2も314も下田さんの土地になっていますので、滝島さんのおっしゃるように、水車を作るために分筆したのかもしれませんね。


以前から、富士町交差点の西側にある田柄用水の暗渠が、関道で分断されたところが気になっていました。写真手前が、関道で分断された蓋暗渠の田柄用水、関道の向こう側(北東)、マックコートマンションの南西にある歩道につながります。


マックコートマンションの南東にある歩道を富士町交差点から撮影。なぜここだけ短い歩道があり、すぐに突き当たりになってしまうのかずっと不思議に思っていました。もしかしてこれが『保谷土地宝典』(昭和13年)に記されている水車ように引き込んだ田柄用水の水路跡ではないかと推察します。


昨日、マックコート東伏見の周りを歩いてみましたが、平井家の坂上水車と比べると土地面積が小さいので、水車の規模もさほど大きなものではないのではないかと思いました。

昭和12年の地図を見ると、建物があった場所は交差点の角のようですので、となると、水車は南北の富士街道に平行の水路にかかっていたものと思われます。



これは田無・半兵衛水車設置図ですが、水車が回っていない時の水路と、水車を回す水路があって、水の勢いが強いところで水車を回転させるところに設置しているように思えます。となると、敷地内に水路が入ってきてすぐのあたりに設置するのではないか、と思われますが?


滝島 俊さんからのコメント…… そうですね。水車の仕掛けは用水の本流には架けないで、用水からまわし堀を掘削して、それに水車を架けるのが一般的と思います。とくに練馬区内の下流域が長い田柄用水であれば、下流域への影響を考慮したはずですね。そうなると、明治の地図に描かれている流路と、大正四年の証文(水車新設にあたり、上下流域への影響が無いと判断されたので許す・・・)の土地地番、昭和13年の土地宝典の流路を考えると、水車小屋を作製する際に新しく作られた流路(もしかしたらこちらが水車を動かさない時に流す流路?)かも知れませんね。水車は関道を横断後分水し、直進する水路は水車小屋に入ったのち、再び富士街道沿いの本流に戻される(もしかしたら体内堀?)かもですね。少なくとも、1本の水路ではなかったと思います。推測ですが・・・。


私もそう思います。つまり大正12年の地図の流路もありなのかな、と。

電総研跡地

【しん散歩(13)…電総研跡地・タコ公園】
・写真上=タコ公園・電総研跡地、昭和59年(1984)撮影
・写真下=上と同じ場所を平成30年(2018)10月15日撮影
 西東京市向台5丁目の向台中央通り(江戸道)から石神井川までの広大な場所に、昭和14年逓信省電務局電気試験所田無分室が開設されました。昭和45年には、電子技術総合研究室(電総研)と改称され、昭和54年には、田無市、永田町、木挽町に分散していた研究所を統合して筑波研究学園都市に移転しました。その跡地が、現在の市民運動場、市民公園(通称・タコ公園)、総合体育館、田無高校になりました。



電子技術総合研究所田無分室(電総研)の建物の写真がありました。昭和53年撮影。「電子技術総合研究所田無分室 昭和五十四年度に移転を予定 筑波研究学園都市移転跡地利用計画 東京都が素案を提示」(「たなし市報」昭和54年)


平成元年に空撮された、市民運動公園や石川島播磨重工業IHI)。IHIって、平成になってからもあったんですね。


石川島播磨重工業。昭和34年撮影。


電子技術総合研究所田無分室。昭和50年代?


解体工事! あの巨大な石川島播磨重工業・田無工場の解体です。平成20年撮影。わずか10年前のことだったんですね。



電総研は通産省工業技術院に属する研究機関であり、1891年に逓信省の“電気試験所”として設立以来、“情報・エネルギー・エレクトロニクス・計測標準技術”4つの分野において文字どおり最先端の研究開発を行なってきました。
「電総研跡地施設整備概要図」(昭和57年)。



電総研跡地利用、市民総合体育館(仮称)建設にむけて工事中。昭和57年(1982)。



電総研跡地の調整池グラウンド整備工事がどんどん進んでいきます。昭和59年撮影。

大好きな風景がまた一つ消えた!

【大好きな風景がまた一つ消えた!】
ここには、楠とケヤキの巨木と、たくさんの伝書鳩が飼われている鳩小屋と、小さな赤い鳥居の祠があって、立ち止まって眺めているだけで、心安らぐ大好きな場所でした。写真上は西東京市保谷町、2015年12月撮影。

架蔵書(ゲテ本)が海外の展覧会に出張します!

【架蔵書(ゲテ本)が海外の展覧会に出張します!】
 今から20〜30年ほど前に蒐集していた書籍20冊が、海外の展覧会に出張することになりました。




 主には、書物展望社斎藤昌三昭和8年頃から企画・プロヂュースした本で、装幀に廃品を利用したゲテ本(奇抜な資材を使い奇をてらった本)といわれている「美しい本」です。
 例えば、写真にあるように、杉の皮を使った本や、筍の皮を使った本。他には、破れた番傘や、みのむしの袋、斎藤に届いた封筒、古い新聞、着古した浴衣などなど、まさにリサイクルの優等生のような本ばかりで、不用品に新たな命を吹き込むゴットハンドのような斎藤の汗の結晶ばかりです。




斎藤昌三の本は手に入れたときに、いつも感動させられる。今日みなづき書房から届いた斎藤昌三『第八随筆集 新富町多與里』(芋小屋山房、昭和25年1月1日)も、そんな刺激的な装丁の本だ。 函(写真左)には、手書きの生原稿が貼ってある。斎藤昌三の原稿だろうか。これは1冊しかないという事を強調しているのだろう。「限定300部之内第81号本也 少雨荘(サイン)」とあるので、これ1冊だけしかないというような細工を施してあるのだろう。
 表紙は、紙型(しけい)という、活字を組んで、印刷用の鉛版を作るときに使用する厚紙でできた、凹版である。一度校正刷りを印刷しているので、紙型にはインクが写っており、文字が読める。『秋水詩稿』に付いての話を印刷したときのものらしい。題簽は鉛でできていて、これは、鉛凸版と呼ばれるもので、印刷の活字のようなもの。つまり文字は鏡文字になっている。角背だが、背革(あるいは背布)がなく、折丁をまとめた背の部分に薄紙を貼ったままになっている。製本としては壊れやすいのであまりお勧めではないが、不断見る事のできない資材を使用したのは奇をてらった面白さがある。斎藤昌三の不用品の再生というコンセプトも見事に貫徹されている。
 さらに、この本文はなんと洋装本であるにもかかわらず、和本のように本文紙は片面刷り二つ折りなのだ。更に和本と違って山折の部分が背になっており、小口側は、ぺらぺらと開くようになっている。そのため、見開き毎に真っ白な頁が交互に登場するのである。つまり、開いたときの蝶々が飛び立つように見える胡蝶本のようなものである。城市郎『発禁本曼荼羅』には「斎藤昌三第八随筆集で、昭和二十五年一月一日、芋小屋山房から限定三〇〇部として刊行されたもので、ある。表紙は古紙型装胡蝶綴、題簽の鉛板を表紙左上に嵌入、原稿貼付外函入、菊変型判」とあり、初心者には、なかなかわかりにくい詞の羅列だが、的確に言い表している。  こんな装丁、冗談もいい加減にして欲しい、と書物は読むものとだけ考える一般人なら怒り出すところだろう。しかし、私には嬉しい仕掛けなのだ。これだからこそ斎藤昌三の限定本といえるのである。正に戦前から続く前衛的装丁の代表作といえる作品である。




斉藤昌三装丁、山中笑『共古随筆』(温故書屋、昭和3年)蠶の種紙を集めて表紙の資材とした。
 表紙をよく見ると、直径1mmほどのキラキラ光る点がたくさん集まって、直径4cmくらいのドーナツ形を形成している。見返しに「読者の方に」として刊行者の坂本篤が、「表紙は蠶(*かいこ)の種紙を利用したものです。茶碗を横にして卵子を軽く磨きますと光沢を生じます。」とある。 



普及版でもこの見事なゲテぶり「魯庵随筆読書放浪」 
東京古書会館のアンダーグランドブックカフェで、斎藤昌三の装丁本を久しぶりに購入することができた。『魯庵随筆 読書放浪』(書物展望社昭和8年5月)がその本。いつものゲテ本の例に漏れず、今回は新聞紙を用いた装丁である。この本は、普及版第二刷500部刊行のもの。ちなみに第一刷は昭和8年4月に1000部刊行している。わずか1ヶ月での増刷である。  巻末に、斎藤は装丁について、「裝幀は第一随筆集の普及版に紙魚本を応用したので、多少類似性のものを選み、兩者の關聯と統一をも考へて、矢張り癈物的な日刊新聞を活用して見た。然し新聞も生地そのまゝでは興味はあるが、持久力の點ですこぶる懸念されたので、製本部の中村に研究さした結果、クロース以上といふ折り紙付きの加工法を發見して應用することにした。」と記しておいてくれた。私にはこれが有難い。  この本を購入する際も、古書市の帳場にいたかげろう文庫さんが、「これ本物の新聞を使っているのですかね?」といぶかしげだった。私も「新聞紙にしてはつるつるして紙質がいいような気がしますね。でも斎藤昌三はいつも本物を使っているので多分本物だと思いますよ。2冊目を購入できれば、記事が違うのでわかるんですがね。』なんて会話をした。  そのくらいいに見事な仕上がりになっていた。どのような加工を施したのかはわからないが、膠と明礬(みょうばん)をと化した水を吹きかける、礬水引き(どうさびき)をすると、このような感じになる。柿渋を塗るのも方法かと思われるが、仕上がりが渋で茶色になる。  斎藤昌三の人物像も気になるが、いつも斎藤のわがままを聞き入れて見事な製本に仕上げてしまう、製本師・中村重義に乾杯!‼︎




斉藤昌三装丁、中村重義製本、小島烏水『書斎の岳人』(書物展望社昭和9年、限定980部之内511号)ミノムシを集めて背の資材とした



友仙の型紙を使った『銀魚部隊』 
齋藤昌三の第5随筆集となる『銀魚部隊』(書物展望社昭和13年)も廃品を利用したゲテ本だ。 巻頭の「序」には、
「外裝は又かと思はるゝ如きものにした。友仙その他の型紙で、從って一冊毎に異なってゐるは勿論だが、見返しは一冊々々表紙貼りの前に、その表紙と同じ型を摺り出したので、それを合わせるのに製本所の苦心は並大抵ではなかつた。これだけは、恐らく他では到底出來ぬワザであらう。」
と、昌三翁は、今回も得意げだ。
 『銀魚部隊』の製作にかかわった女子社員の高野ひろこ氏の証言が『日本古書通信』第27巻(古書通信社、昭和37年)に掲載されていたので、引用させてもらおう。 
「私が入社して間もなく出版された先生の著書に『銀魚部隊』があった。凝った装幀にかけては日本一と言われただけに、実に見事なものである。この出版の時、外裝に使用する友染の型紙を捜しに先生のお供をして、日暮里あたりの或る古物屋に行ったことがある。古物屋と言うよりバタ屋とでも言った方がよいくらい最高に汚い所で、そこで廃物になった友染の型紙を買い求めたのだった。一枚一枚画柄の違ったその型紙は一冊一冊異った装幀の本を生み出した。見返しに表紙の画柄を摺り出したものを使用したのだから、製本所の苦心も並大抵ではなかった。」 と、齋藤の強引さが目に見えるようだ。




斉藤昌三装丁、中村重義製本、斉藤昌三『書痴の散歩』(書物展望社昭和7年、限定1000部之内198号)番傘を集めて表紙の資材とした
 一冊だけ作るならまだしもここまでマニアックな装丁を量販本で作るのは、今では殆ど不可能であろう。限定本とうたっているが、番傘を表紙の資材に用いた斎藤昌三『書痴の散歩』(書物展望社昭和7年)は1000部も発行している。材料を手に入れるだけでも大変だと思う。
 「序にかえて」には「吾々如き文集がそう度々出そうにも思はれないので、たとへボロでも身分相応、世間並みの着物くらいは着けさせねばなるまいと考え、内容の大体が多少の補修を下とは言へ二番茶であり、既に処女性は失われてゐるから、そんなものに晴衣はモッタイナイと思ったので、何か廃物で活用できるものこそ相応はしいと考へた結果が表装材料を番傘とした。雨傘は捧げられた者の為に雨水を凌いで、御用を果たした揚げ句は屑屋の厄介者にされるものだし、少雨荘の名にも因縁あるもの、こんな物こそ自分の著書には適した晴衣だと試みてみた。」と廃物利用の動機を語っている。

「無論初め三四回は失敗したが、製本所泉人社の中村は、曾て漱石の『猫』の縮刷本で苦心したことがあるといふので、進んで研究したり、古傘の不足を深川のタテバへ探しに出かけたりで、いよいよ出来上がつたのを見ると、貴族的な羽二重などより遙かに似合ってゐた。これでこそ内容も活き外装も復活甲斐があると独りで合点してしまった。」と、タテバ(注、屑屋などが集まって、その日に買い取った品物を売り渡す問屋)へ出かけて番傘を集めたりと、方々手を尽くして集めたようだ。



斉藤昌三装丁、中村重義製本、木村毅西園寺公望』(書物展望社昭和8年)筍の皮を集めて表紙の資材とした。
西園寺公望』「吉例巻末記」より
「西公は平常竹を愛して雅號を竹軒と称してゐる。これから第一ヒントを得て、第二は、常用に竹の杖を用いて居られるように考えた。それに竹は東洋特産のものであり、公は東洋の代表的人物であると共に、公の性格も竹の如く直情そのものである如く考へ、竹なる哉〜と、竹の應用を獨りできめて了つた。筍皮を書物に應用した例は大正期に一二試みた者がないでもないが、いづれも完成されたものとは云い得られなかった。……背の竹は三面から合せることにし、眞田紐を以て〆め上げたのは、披讀に際し机上を傷めぬ要意も多少はあって、文字は一部宛彫刻(少部数は岡村梅陀氏自刻)することにした。平面の筍皮は研究に研究を重ねた結果の、特製の糊を使用したので、竹と共にこれは恐らく永久に剥れる憂ひはないと信ずる。兎に角一見奇異な書物となったが、東洋趣味をモットーに新たなものにと努めたつもりである。この努力が多少でも面白いなと認めて貰えるとしたれ、その大半は萬事相談相手となった柯青君と製本部の中村重義君の熱心に負う所が多い。因に背の竹は初めから枯らされたものをとも思ったが、青い竹も一時的ながら野趣があるといふ木村君の賛意もあって、それにした。架蔵中に漸次變化して行くことも、曾てない特色ある興味であらうと思ふ。」と筍皮や竹を使った理由を述べている。




佐野重次郎:装丁、横光利一『時計』(創元社昭和9年ジュラルミン装。





 なんと、私が作ったゲテ本?(写真下2点)も出品することになりました。

『L'atolantide』漆を使って、象嵌螺鈿、研ぎ出しなどの技法を駆使して、1年がかりで制作。針金で作った女王様や黒豹やラクダなど話に登場する人物や動物を太陽と砂漠のイメージに中にコラージュした。



織田信長』大学などの「文庫本を上製本にリメイクして、世界に1冊だけの装丁を作る」という実習のための見本に作ったもの。幕末の頃の和装本を分解して表紙に貼った。刀の鍔は美術館で購入した大量生産されたものを使った。

千川上水・坂上水車取水口、鎮守前水車

【しん散歩(12)…千川上水・葭(よし)窪橋・坂上水車取水口、柳沢4丁目】
・写真上=千川上水・葭(よし)窪橋、柳沢4丁目(昭和16年撮影)
・写真下=上と同じ場所を2018年9月1日撮影
 鉄道の駅近くの建造物は、多くの人の記憶に残っているものと思いますが、市境周辺になると、地元の人ですら興味を示さずほとんど知られていない建造物があります。
 今回紹介するのは、そんな市境を流れる千川上水に掛かっている「葭(よし)窪橋」ですが、ほとんどの市民がその存在すら知らないのではないかと思います。千川上水の南側は武蔵野市八幡町ですが、かつては「葭窪」と呼ばれていました。地名がつけられた頃はヨシの生えているような窪地だったのでしょう。千川上水の北側の柳沢4丁目あたりは、かつては「葭窪北台」と呼ばれていましたので、「葭窪橋」という橋名は地名の名残りなのでしょう。
 ここは、坂上水車の取水口でもあったようです。
 古い地名はその土地の地形の特徴や産業などを表していることが多く、方角や番地などの安易な地名に変えられてしまったのは、その土地の歴史を探るよすがを断たれてしまったようで残念に思います。




滝島 俊さんからFBにコメント 今は「保谷二小通り」と呼ばれている、西武柳沢駅南側の青梅街道から南に進む道は、昭和30年代まではこの橋の所までつながっていた様ですね。上柳沢の青面金剛庚申塔のある道です。武蔵野運動場が出来て、道が無くなっちゃったんでしょうか。

ガスタンクの西側神柳沢橋を渡って坂を登り、柳沢団地通りと交差して、過度に中華料理の店があって、さらに南進すると、三菱UFJ銀行の武蔵野運動公園にぶつかると、不自然に90度左折しますね。この左折がなく、直進できればちょうど葭窪橋戸言うことですね。確かに! 昭和31年の地図では、保谷第二小通りは三菱UFJのグランドで分断されずに、千川上水まで直線で繋がっていますね。


白黒写真の中央やや上に水面が写っていますが、ここが、坂上水車の取水口らしいです。


滝島 俊 やはりそこでしたか。そこはちょっとこんもりした雑木林ですよね。塀の内側あたりを通って進んでいたと想像していました。北東隣のお宅も、庭に用水路があるような不思議な感じの家です。


保谷村(現・西東京市)には、明治40年には、2箇所に水車がありました。一基は保谷村大字上保谷新田字鎮守290番地と、もう一基は保谷村大字上保谷新田字坂上57番地です。前にアップした昭和31年の地図にも、坂上57番地と記載されています。さらに年代を遡って昭和12年の地図には、水車の記号が記されています。水車のための用水路も葭窪橋あたりまで記されています。地図は、昭和12年



滝島 俊 両方とも平井週作さんが関係した伸銅工場に関係する水車で、坂上水車は現在の岩崎さんの駐車場あたりと思われます。


平井家は、ここで1849年(嘉永2)に水車稼を企業し、1947年(昭和22)に売却。その後、この土地は4度ほど転売を繰り返し、現在は、土地所有者が市内在住ではないので(あきるの市)、不動産業者が所有しているのかもしれませんね。


こいこい橋の北側の四角の一角が水車があった場所ですが、水車は、この一角の中央を西から東に流れる水路に掛けてあったようですので、千川上水には面していなかったようです。写真は坂上の水車場(1941年撮影)。



この「こいこい橋」がどこにあるのか、千川上水べりを歩いてみましたがなかなか見つかりませんでした。が、地図上に見つけました。この橋の北側にはひょうたん公園があるらしいので、まず「ひょうたん公園に行ってみました。


これが新柳沢団地にあるひょうたん公園のようです。ここから南に進んで千川上水にぶつかるところにあるのが「こいこい橋」ということなので、南進してみました。


これが「こいこい橋」なのか。橋の名前はどこにも記されていませんが、きっとこれなんでしょう。さらにこの橋の北東に「坂上水車」があったというのだから…。



この右側の建物があるあたりが、坂上水車場があったところなのか?


建物に近づいてみます。この一角が坂上水車があったところなんだ! やっと見つけました。


路地を北進してみます。右に凹んでいるあたりが水車への水路があったあたりかな?


ちょっと振り返りながら、緑があふれているところを東に曲がります。


水車場跡の一角の北側の路地です。東に進みます。この先右折して南に進みしか進路がありません。


坂上水車場跡の北側の路地の突き当たりを右折して、東側の路地に向かいます。


この辺が水車で使用した水の出口があるあたりですが、そんな痕跡はどこにも見当たりません。奥のほうには千川上水が見えます。


これで、水車場を囲む路地を一回りしました。千川上水脇の道に出て、西側をみています。奥のほうには、こいこい橋の脇の建物が見えます。水車場跡は10軒ほどの民家などに細分化されて分譲されているようです。


道路と生け垣の間に1mくらいの空間があるのが、水車のための用水路跡のようです。写真左の家のご主人が出てきて、この大きな石が並んでいるところが水車のために引いた水路の跡です、と教えてくれました。写真は蘆窪橋の北から50mほど東から東を望む。千川は写真右を流れています。


滝島 俊 このお宅は、前に私が書いた庭に用水路跡のようなものが有るお宅ですね。

そうですね、三菱グランドの脇から千川上水に出てくるところです。

これはこいこい橋のあたりから西側をみたところですが、やはり、道路と塀の間には1mほどの空間があります。これが、水路跡のようですね。平井家が毎年、知事あてに「公有土地水面使用願」を提出していたようですので、水路跡は都有地のようですね。


これは水車を所有している平井家が、知事へ提出した「公有土地水面使用願」控(昭和19年〈1944〉)です。「水車営業地五七番地」から道路の北側に水路が引かれているのがわかります。


千川上水は、1696年(元禄9)に開削された。その目的は、将軍が御成りになる施設である、小石川・白山御殿、本郷・湯島聖堂、上野・寛永寺浅草寺などへの給水でした。明治になってからは、紙幣局など下流での使用があったため、水量も確保されていたようです。


1657年(明暦3)の大火により、江戸市中の周辺地域の発展が急激に進み、それまでの玉川上水神田上水の両上水の未給水地域への給水のために、さらに四上水が開削されました。1959年(万治2)亀有(本所)上水、1660年(万治3年)青山上水、1664年(寛文4)三田上水、1969年(元禄9)千川上水がその四上水です。千川上水の普請は、和泉屋太兵衛と播磨屋徳兵衛、加藤屋善九郎、中嶋屋与一郎が請負って、設計は河村瑞賢によって作られたという説もあります。将軍様の御成りになる施設への給水の他にも、神田、下谷、浅草にかけての大名屋敷や寺社、町屋の飲料水としても使用されました。1702年(元禄15)には老中柳沢吉保が開いた「六義園」の泉水にも使用された。


保谷新田には二つの水車場があったが、もう一つの水車場は、1818年(文政1)に平井氏が起業した、保谷村大字上保谷新田字鎮守290番地にあったようだ。現在の住所に置き換えるとどの辺なのか?。まずは鎮守290番地を特定しよう。地図は明治39年測図の上保谷新田台辺りです。中央やや左上の神社が、阿波洲神社です。中央の交差点が柳橋交差点。神社と交差点の間にある太陽のようなマークは「工場、鉄工所」。もしかしてこれが、明治44年(1911)に北多摩軍内で一番の生産額を達成した鎮守前の水車工場なのか? 工場の辺りから左下の境橋に向かって二重の波線が描かれていますが、これが「水路・施設・水制」の記号で、ここでは水路ですね。


これは前掲地図と同じ上保谷新田の昭和14年測図です。太陽のような記号の工場がなくなり、煙突マークの工場・紀長伸銅所が出来ている。水路も途中で切れているが、水路がなくなってしまったのか?


これは前掲の地図と同じ場所で、昭和31年測図の上保谷新田です。一度消えてしまったかと思った工場のところには、南機繊維工場に代わっている。煙突マークの紀長伸銅所は太陽のようなマーク・工場に代わった。ここだけ番地が飛んでいるが、285、288、◯、293、294と続いているので、この工場が「290番地」のかつて平井氏が所有していたという水車ではないだろうか?


これが前掲地図と同じ場所で、平成9年の柳橋交差点付近の地図です。「390番地」紀長伸銅所の辺りは日産プリンス武蔵野営業所になっています。「285番地」南機繊維工場があったところは、JA東京みらい柳橋支店と住宅地に変わってしまっています。今、足を運んでも、恐らくは水車があった痕跡などは全く見つからないと思います。


鎮守前水車があったのは、日産プリンス武蔵野営業所のところなんですが、何か痕跡が残っていないものかと、この暑い中探し回りましたが何も見つかりませんでした。釣りならば「ボウズ」ですね。ま、こんな日もあるさ! 写真は柳橋交差点日産プリンス武蔵野営業所。



明治39年地図に記されている水車と、昭和31年の地図に記されている水車が、どうしても同じ水車には思えないんですが…。画像は昭和40年「保谷土地宝典」ですが、ここでは、「290番地」の1〜19が昭和31年の地図の水車場の位置とほぼ一致しますが、明治39年の地図に描かれている水路とは全く違う場所のように思えます。「290番地」は、ほとんどが、現在の日産プリンスの敷地とかぶっているようです。


平井家から東京府知事昭和12年(1937)に提出された「290番地」の鎮守前水車場及び水路の「公有土地水面使用願控」です。


やはり、大正6年には、水車場は2箇所でしたが、水車は3基あったみたいですね。坂上水車場(奥住第二工場10馬力)、鎮守前水車場(三谷黄銅板圧延工場20馬力、三谷第二溶鉱場12+6馬力)。


滝島 俊 一時期水車は3基あったんですね。ありがとうございます。
奥住第二工場は明治30年4月の創業と書かれている資料もあり、26馬力程度あった時もあるようです。本題の三谷工場ですが、創業が明治26年12月に3馬力からスタートし、明治30年に改良し、明治34年時には25馬力になっている様です。1基での最大出力はこれぐらいでしょうか。
その間、三谷工場内では黄銅板の圧延工場などが増設され、それ用の水車が増設されたんでしょうかね? 蒸気による溶鉱場も併設されていたようです。 だとすると工場内に第二、第三の水路が出来ていたわけも理解できます。


奥住第二工場(坂上水車)は、昭和2年頃末頃の全国工業通覧から姿を消してしまったが、昭和24年(1949)に再建される。が、技術革新に遅れ昭和47年(1972)に廃業となったようです。


鎮守前水車・三谷黄銅板圧延工場は、大正7年(1918)に榎本黄銅板工場代わっています。


これは鎮守前水車場・三谷黄銅板圧延工場20馬力の平面図です。昭和7年(1932)に提出した「公有土地水面使用願」(上保谷新田弐百九十番地)に添付された図面です。


田無の下田家の水車平面図(昭和6年)です。明治22年には一丈九尺(5・7m)と、田無にあった7基の水車の中では最大ですが、鎮守前水車は、それにも増して大きいのではないかと推察します。

前図と同じ水車なのかどうかはわかりませんが、ホンケの水車「搗杵の見える水車場内部」(田無本町、昭和36年)。


千川上水に「親和橋」(「保谷町広報」昭和34年11月)が出来た、という記事を見つけました。この親和橋は橋の名前ではなく、保谷・武蔵野を結ぶ相互に仲良く協力して建造した橋、というだけで、橋名は別にあったのか? 千川上水にこの名の橋は見つかりませんでした。


滝島 俊さんからのコメント…… 坂上水車があった所のそばに架かっている、通称?「こいこい橋」の事かも知れませんね。 こいこい橋という名前も意味深ですよね。


ひらがなで「こいこい橋」と命名したのが意味深ですね。「来い来い」とか「恋来い」とか、読む人にとって、勝手な解釈が成り立ちますね。案外「親和橋」改め「こいこい橋」かもしれませんね。武蔵野からも来い、保谷からも来いで「来い来い」と。


滝島 俊さんのコメント…… 保谷町側、武蔵野市側から行き来するという意味で、「こっち来い、あっち来い」みたいな意味なんでしょうね。
この写真は「こいこい橋」で間違いないと思います。
下の写真は保谷町から南東方向を写したもので、武蔵野市八幡町4丁目の住宅地が写されてます。橋の向こうの家の屋根には中島飛行機の大煙突が写されてますね。武蔵野北高のテニスコートの南側にあったものです。左側の家の屋根の向こうには、現在の「八幡町いこいの広場」にあった給水塔が見えます。八幡町4丁目には「親和ふれあい花壇」という公園もあり、「親和」という言葉は以前からこの地区で使われていた様ですね。千川上水武蔵野市側の五日市街道のバイパスは、この時はまだ出来ていなかったようです。


すごい、中島飛行機の煙突でしたか! とすると、保谷側は、平井家の水車があった場所ですね。写真は武蔵野市側から撮影した、現在のこいこい橋。


これが写真についていた文章(「保谷町広報」昭和34年11月)ですが、肝心の場所がはっきり書いていないんですね。関前親和会とありましたので、関前橋あたりかなと思いましたが、武蔵野市「関前」は、千川上水取水点から武蔵野大学あたりまでの東側なので、結局、市内の千川上水全域が「親和橋」の場所の候補になってしまいました。


滝島 俊さんからのコメント…… この文を拝見すると、保谷町側(現柳沢3丁目地域)の「千川上水親和会」という町会と、武蔵野市側の「関前新和会」というのがあり、(「しんわ」の字が異なる)記事の見出しは「新和橋」となっていますね。ことの発端は保谷町側の「親和会」の様ですが、最終的には両自治体の協力によりできたと。。。
しかも、二つも出来たと書いてありますが、そうすると、もう一つはどこでしょうね?


人物ばかりがごちゃごちゃ出てきてわかりづらい文章ですね、4W1Hがない! 私は、橋は一つですが、「親和会・新和会の二つの思いが繋がって愛の架け橋ともいうべき親和橋が出来た」という意味なのかなと勝手に解釈していましたが?


滝島 俊さんからのコメント…… 本当ですね。よく読むと、この記事たった2つの文で出来てます。(句点が2つしかない) 後半の文は、小学生の遠足の作文みたいで、ダラダラと長いが故に内容が伝わりづらいんでしょうね。 いつ、何処にが書かれてませんが、「こいこい橋」からさらに上流50mぐらいにもう一つ橋があった様です。
現在は残っていないこの橋が2つ目の橋の事かも知れません。


武蔵野市の市報などが西東京市の図書館にないかな、と検索してみましたが、見つかりませんでした。武蔵野市の図書館まで行かないとダメかな? 同じ橋の話をどのように記事にしているのか見つかれば面白いと思うのですが…。

しん散歩(11)…田無用水、立川街道芝久保3丁目

【しん散歩(11)…田無用水、立川街道芝久保3丁目】




・写真上=田無用水、立川街道芝久保3丁目(昭和43年撮影)
・写真下=上と同じ場所を2018年9月15日撮影


 田無用水は、東京都小平市西東京市を流れていた全長約5.6kmの用水路で、江戸時代前期に田無村の飲み水として玉川上水から分水してつくられました。
 田無村の成立について簡単に眺めてみると、慶長11年(1606)、幕府は江戸城改築にあたり、青梅から成木石灰を運搬するために、青梅街道(成木街道)を開設しました。田無村は中野、箱根ヶ崎などとともに街道の継場として設けられました。しかし、当時は武蔵野の逃げ水と言われるほど水利が悪く、朝夕、谷戸(現:西東京市谷戸町)から水を汲み運んで飲み水としていました。
 承応2年(1653)に玉川上水が開通し、その3年後の明暦2年(1656)に小川用水が開削され、青梅街道の馬継場として新たに小川村が開村されても、田無村の水事情は改善されないままでした。
 田無用水開削の嘆願書が提出されて許可が下りたのは元禄9年(1696)のことでした。田無用水は当初、田無村一村のための吞用水として二里半ほどの用水路が開削されました。喜平橋下流玉川上水から分水されましたが、その樋口は四寸四方と他の用水に比べて小さいものでした。(ちなみに野火止用水は六尺×2尺、小川用水は一尺四方。)
 その後幕末から明治にかけて、吞用水だけではなく、廻田新田や田無村の田用水としても利用されることとなりました。


この道路沿いに50年前のまま畑が残っているのがここだけでしたので、間違いないと思いました。さらに、昔の地図には、クランクカーブしている場所が2箇所ありますが、この写真の手前に、造園の畑や、田無よりのところに歩道が約50mだけ、田無に向かって右側(南東)にあるので、ここが「コ」の字に曲がっていたところではないかと思いました。さらに昭和62年の住宅地図を見ると、この畑や、「コの字」カーブした時の名残の歩道などがわかり、芝久保3丁目にはここしかないと確信しました。カラー写真の横断歩道は南芝久保通りかな、なんて思いながら撮影してきました。


この写真は地図の赤丸部分を小平方面に向かって撮影しました。ここだけ50m程ですが歩道がありましたので、ここが地図の赤丸の場所だということがわかります。


しかし、別の地図を見ると、「コの字」カーブはなく、芝久保用水の分水口になっていました。50mほどの歩道は、水路跡であったことは間違いないのですが、歩道を流れていた流れの先が、元の流れに戻ったのか、芝久保用水になって流れていったのか? まさか、地図によって違うとは……。何れにしても最終的には田無用水は立川街道に戻るか、最初から曲がっていないかのどちらかしかありません。


滝島 俊さんから 「芝久保用水の分水口について考えてみました。分水口と思われる南側に歩道がある地点(A)の標高は66.1mです。そのまま進んで、みたけ分社通りの交差点(B)の標高は65.5m。約75mで60cmを直線的に下ります。
 一方、芝久保用水の(C)地点は65.9m、(D)地点は65.8mです。つまり、立川街道と みたけ分社通りの交差点から南下する道は登坂なので、芝久保用水としては、その前に流路を作る必要があったわけです。田無用水は、コの字に迂回しなくてもそのまま真直ぐ進むことも出来たと思いますが、もしかしたら芝久保用水を作る時(明治4年1871年)に、(D)地点から(B)地点に戻す水路を作ったかも知れませんね。(B)−(D)間の みたけ分社通りの東側にはそれらしき歩道が存在していますので。」とのコメントと、下記の地図がFBに送られてきました。


実際はどうであったかどうかは確認する術がありませんが、この説明は、私も納得です。立川街道の本流は、道路の対岸に流れを写したのは今もその痕跡が見られるので、確かなことなんですが、その後、どこかでまた立川街道の北側にもどってくるので、芝久保用水分流口と立川街道の窪地を避けるのとを同時に解決することになる、滝島さんの説には説得力があります。

A〜Bは真っ直ぐ進むには鵜野家の入り口付近が現在も地形的に低地になっておりむずかしいかと思いました。立川街道の南側をみたけ分社通りT字路まで直進すると芝久保用水が上り坂になってしまうんですね。写真は立川街道から写真左の路地に入っていく芝久保用水です。


芝久保用水については、いままで立川街道にほとんど行ったことがなく、全く興味がありませんでしたが、地図を見ると案外何度か通っている道だということが判明。西東京中央総合病院の西側の細い道が、芝久保用水路跡だったんだ! そうだとわかると急に身近な存在になってきた!! 現金なやつ、なんて言わないで!


昨日も、西東京中央病院西側にある伏見稲荷神社を撮影していました。



松崎 博さんからEBにこんなこめんとがありました。「 大貫さんが撮影された上の写真の鳥居と稲荷を線路の南側の踏み切りあたりから撮影したのがこの写真(田無図書館所蔵パネル82番)のようです。拡大すると鳥居も稲荷も電車の右側に見えます。手前は北芝久保の用水なのでしょうか。」と。これがその写真です。


滝島 俊さんからもFBにコメントが、「 その通りですね。府中道の踏切から撮影されてます。芝久保用水もちゃんと写ってますね。今は病院の陰になって稲荷は見えなくなっちゃいましたが。」と。


昭和35年(1960)に撮影されたこの写真は、府中道と西武新宿線の踏切だったんですね。手前の溝は芝久保用水の昔の姿みたいですね。これはすごい、すばらしいです! 話がとぎれとぎれですがみんなつながっていますね。私が撮影した伏見稲荷神社が58年前に撮影された古い写真にも写っているのがなんか感動ですね。


松崎さんがアップしてくれた「田無図書館所蔵パネル82番」の場所に行って撮影してみました。手前の水路はもちろんありませんが、手前から奥に向かって3番目の電柱の右にある神社も見えません。電車も白黒写真と同じ場所に来る前に遮断機が降りてしまい、同じような写真を撮ることはできませんでした。なんとか構図だけは似せてみました。


西東京中央総合病院の北側から、自転車が一台やっと通れるくらいの細い路地を、西の五軒家通りに向かって進んでみた。


だんだん狭くなっています。水の流れに逆らっているようです。


ますます狭くなってきました。こんな細道が舗装されていますが、この細道って都道なのかな? 一番奥に道路が見えます。


話は最初の分流点に戻りますが、立川街道芝久保町2丁目の芝久保用水取水口には水車があったようです(地図④)。このクランクカーブは水車場だったんですね。芝久保用水下流にももう一台水車があったみたいです。2つめは、向南中央通りと市役所通りの交差点のあたりです。水流が弱いのではないかと思いますが、急な坂を利用して、なんとか水車を回していたんですね。(地図は『田無市史第3巻民俗編』より転載)


雨が降った時くらいしか流れない石神井川にも水車があったんですね(地図⑥)。ちょっと信じがたいです。4年後には廃止届がだされている。もしかして、水量が不安定だったのかもしれませんね。この水車は、現在は向台公園になっているところに住んでいた小山平太郎家によって、明治36年に設置届が出されたましたが、水車講を構成し、21株・33軒の家が利用していました。しかし、4年後には廃止届が出されたようです。が、廃止に至った理由はわからないようです。……コンスタントに一定量の水を得ることが難しかったのではないかと推察します。



「明治期には田無に七カ所の水車場があったが、その中でもっとも規模の大きな水車場を持っていた本町(旧下宿)の下田富宅家の水車…。同家の水車場は明治末には六三個ものつき臼があり、挽き臼は一個でつくのを専門に行っていた。この他の水車場では芝久保の高橋徳太郎家のものが明治中頃の一時期に、四六個つきの臼を持つ規模を持ち、また屋号ヤマジョウ(下田太郎右衛門家)といわれた家は、つき臼一六個、挽き臼六個で、いずれも水車家業を営んでいた。図に示したその他の水車はつき臼二個から十個の規模を持つ、個人もしくは共同の水車であった。……南芝久保の中村家の東側の角にも水車があった(図中⑤)ここの水車は用水の下流にあり、10軒内外の家がこの水車を使って麦や粟などの雑穀をついていた。夜中に雑穀を入れておくと朝にはつきあがっていた。用水はこの水車場から急斜面の坂道沿いに南下して、石神井川沿いの田(現在の養護学校辺り)に流れ込んだ。この用水の流れる音はドンドンと周辺に響き、周辺の人はこの用水を通称ドンドン川と呼んでいた。」(『田無市史第四巻民族編』)


「田無の水車は一カ所を除いて用水にかけられた水車であった。それらはいずれも何メートルか地下に掘り下げてその落差を利用して水車を回した。半地下式の穴水車といわれるもので、それから排された水は、暗渠を通って表水路に流れ込んだ。暗渠は体内ボリといわれ、何メートルかおきに地表に息抜きの縦穴を掘っていた。その深さは場所によってはほとの高さほどもあり、川さらいの時にはこの縦穴から入って石ころなどを拾った」(前掲書)。





昭和35(1960)年頃の芝久保町を流れる田無用水。流れの両脇に盛り上げられた土は、滝島さんのおっしゃっていた「土揚げ;ドアゲ」による堤?ってこれですね。



滝島さんよりFBにコメントがありました。
大貫さん。この昭和35(1960)年頃の芝久保町を流れる田無用水の写真の場所、以前指摘した所(三河屋酒店前)ではないですね。
再度確認した所、この場所は小平市との市境で、用水の右側は現在花小金井小学校があるところです。すなわちこの大きな土手は、市史に書かれている道路より高い所を流すために土盛りした土手で、明治初期の地図にも記載されている所ですね。
証拠になったのは、左側に写っている「ちば」という名前のお店とその隣の酒屋です。以前は「三河屋さん」の看板として「清酒 神鷹」があると思ったのですが、「ちば」は現在もあるラーメン屋さんの「唐麺ちば」ですね。ラーメン屋さんの看板だったのではないでしょうか。その奥は「くるみや酒店」になります。もちろんタバコも売ってます。昔の写真で測量をしているような所が小平市との境で、左の店は小平市のお店です。また、花小金井小学校は昭和48年開校ですので、この時はまだありません。


素晴らしいですね、よくわかりましたね。それにしてもよく似た場所があるものなんですね。「住宅地図を確認しましたが、おっしゃるように「中華ちば」「くるみや酒店」「理容こけし」の3軒が田無市小平市の市境のところから小平市を眺めたところにありました。この場所は、『田無市史第3巻通史編』に記されている写真説明「土を盛り上げた田無用水路(芝久保町 1960年代)」に、惑わされて、小平市側を全く見ていませんでした。


滝島 俊 おそらく田無市史に掲載されているような写真は、民間の方が撮影したものではなく、市役所の下水道課などが撮影した工事用の確認写真などが多く、転用の時にあまり詳細を確認していないことが多いようです。場所も大雑把な記載ですし・・・。
今回の写真は、ドアゲにしてはあまりにも量が多いので疑問に思いました。なお、写っているお店や小学校側の建物の状況から推測すると、撮影は1965〜66年頃と思われます。


私も最初にアップした田無用水(1968年撮影)に比べて、後にアップした1960年代に撮影した、「ドアゲですか?」 と質問した写真の堤幅?が大きいな、と思いました。が、それ以上疑問に思いませんでした。まさか土盛した写真だったとは‼︎ あまりの違いの大きさに、西暦と元号を間違えて「わずか数年でこんなにも違いが…」というコメントをしてしまったくらいでした。


滝島さんが教えてくれた、立川街道・花小金井小学校前の田無用水(「ちば」の看板がある白黒写真)が、盛り土されて窪地を突破したところに行ってきました。結構深く長い窪地ですね。


「ちば」の看板がある白黒写真と、昨日撮影してきた写真を合成してみました。

鎌倉時代の板碑(いたひ)3基

【しん散歩(10)…鎌倉時代の板碑(いたひ)3基】



・写真左=延慶年間(1308〜1311)の板碑、宮山出土。
・写真中=応長元年(1311)の板碑、大門出土、如意輪寺所蔵
・写真右=文保元年(1317)の板碑、上宿出土。


 西東京市市内で発掘された板碑は40数基あると思いますが、網羅された一覧表は見当たらず、公表されたものではなく私が数えた数字です。墓地にある板碑は見学することができますが、寺院や個人所蔵が多く見ることが難しいものも多い。
 西東京市郷土資料室に保存されている谷戸(宮山)から出土した「延慶の板碑」(写真左)と呼ばれる鎌倉時代の石の板(板碑)がありますが、これは誰でも見ることができます。。鎌倉時代の板碑はそのほか大門出土の応長元年の板碑(写真中)や、上宿出土の文保元年の板碑(写真右)があります。
 これらの板碑が出土した場所は北原上宿地下水堆の真上にあり、地下水位が高い谷戸や、ここから流出する小水路周辺に、古来から、ごく小さな集落があっただろうことを示しています。


◉板碑…板石塔婆,青石塔婆ともいう。主として供養,追善のために,種子 (しゅじ) あるいは仏,菩薩の像,供養者,造立年月日,趣旨などを表面に刻した板状の石碑。多くは高さ 1m内外,上頂部を三角に加工し,その下に2条の溝を入れている。その祖型は修験道の碑伝 (ひで) ,あるいは五輪卒塔婆に求められている。ほぼ 13世紀前半から 16世紀末にわたって製作され,全国に分布しているが,関東地方に特に多い(『ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典』)。


写真がみんな黒っぽいのは、石碑などの文字は写真だと読みにくいので、石碑に紙をあて、墨を使って、そこに刻んである文字・模様をうつし取る「拓本」にとります。試しに写真左の「延慶の板碑」の実物を撮影してみました。典型的なものとしてイメージされる武蔵型板碑は、秩父産の緑泥片岩を加工して造られるため、青石塔婆とも呼ばれる。文字は読みにくいが、この色も板碑の特徴なんですね。


昨日(2018.9.10)は、西東京市「公民館だより」の編集者の皆さんと、下保谷の大泉堀(だいせんぼり)やソッコウ台墓地の板碑などを探索してきました。ソッコウ台墓地、大泉堀からは、14基の板碑が発掘されているようですが、今回は7基の板碑を確認することができました。資料によると「上限(一番古い)は文明5年(1473)で、以下文明10年、明応7年(1498)などがあり、文明5年〜明応7年の25年間に集中しており、時代は戦国時代初頭から前半の造立」のようです。大泉堀、ソッコウ台では、15世紀後半の15年間に集中するという頻度からみて、この時期には耕地を持った百姓の集落が形成されていたはずであり、その場所は下保谷窪地の坊ヶ谷戸の一帯であったろうと推察されます。



これは、拓本にとれば年代がわかりそうです。


これは「地下水面の海抜高度」地図です。地下数位の高いところには水が出やすく人が住みやすい、ということか? それぞれの土地の標高からこの地下水面の海抜高度を引き算するとその辺りの井戸の深さが分かるのだと思う。この地下水面の海抜高度が板碑の出土場所と関連しているのが面白いです。


こちら「窪地と地下水の浅い地域との関連」地図。つまり、この地図の左下にある餅網のような部分が、上の地図の地下水位の高いところというわけですね。このように地下に水が溜まっているような場所を「地下水堆(ちかすいたい)」っていうのだそうです。西東京市ではこの地下水堆の真上から多くの板碑が出土しています。


突然、話は第三の川・石神井川に移りますが、実はこの稿を書いている時に初めて知ったんです。こんな大きくて完全な板碑が西東京市で発掘されていたなんて、ついさっきまで知りませんでした。120×30cm、出土場所は石神井川沿岸の早大グランド。1987年〜94年にかけて発掘調査をした時に、思いもよらなかった中世の大遺跡が出土したのだそうだ。東伏見駅南から早大グランドあたりから、計4基出土している。この板碑はどこにあるのだろうか、見てみたい! こんな重要な資料がなぜ西東京市資料室に展示されていないのでしょうか?


西東京市市内で発掘された板碑で、制作年代がわかるものだけを発掘された場所ごとにまとめ、市内を流れていた3本の川(大泉堀、新川、石神井川)のどこの川の近くで発掘されたのかがわかるように、表にしてみました。石神井川沿岸から発掘されt板碑は、数が多いわけでもなく、一番古いわけでもなく、微妙な位置にいます。そんなことが今まであまり注目されなかった理由なのかもしれませんね。


表を眺めてみると、西東京市で一番古い板碑が見つかっているのは、今の所、新川の上流あたりで、鎌倉時代の終わりころ、ということが一目でわかりますす。大量に板碑が見つかっている大泉堀(栄町、北町、下保谷)周辺は、室町時代(1335〜1537年)中でも戦国時代と言われる1467年(応仁の乱)あたりから人がたくさん移住してきたのではないかと思われます。石神井川周辺(早稲田大学グランド)からも数は少ないですが、平安時代南北朝時代の板碑が発掘されています。これから川の下流に当たる練馬区や東久留米の南沢あたりの板碑と比較すると、西東京市の祖先が住んでいたころの様子がわかってくるかもしれませんね。写真は、市内で発見された板碑のうち、主に年代がわかっていて、拓本に取られているものを集めてみました。


お隣の練馬区では石神井図書館強度資料館編『練馬区の板碑』(練馬区教育委員会、昭和50年3月)、A5判144Pを刊行している。練馬区には224基の石碑が発掘されており、そのうち172基が、石神井川と白子川流域にある寺院に収められているという。西東京市との関係を調べるには好都合合なデータだ。それにしても練馬区が羨ましいです、こんな立派な拓本板碑集が作られているとは!


「板碑の分布」+「板碑の所在地」(共に『練馬区の板碑』に掲載)を一つのデータに合体させ、どの地域にどのくらいの数が発掘されているのかがわかるようにしました。白子川(大泉堀)沿いの妙福寺53基、石神井川沿い三宝寺38基をそれぞれの川の筆頭として、データを取るには十分な数が発掘されているのがわかります。そして、新川が、鎌倉時代室町時代ころは練馬区には繋がっていないのがわかります。


写真上は白子川沿いの寺院・妙福寺(練馬区)が所蔵している板碑です。写真下は、石神井川沿いにある三宝寺(練馬区)が所蔵している板碑です。それぞれのお寺が所蔵している板碑は、ほぼこの2種の板碑と似た様式のものです。写真上のような板碑を題目板碑と呼ばれ板橋区にある板碑の26パーセント強が、このパターンです。妙福寺を中心とdして日蓮宗の寺院が大きな勢力を持っていたことがわかります。写真下は、弥陀板碑とよばれ板橋区にある板碑の38パーセント弱が、これと同じような様式です。一般的に弥陀の信仰は浄土宗関連のものと思われていますが、石神井川沿いの寺院は真言宗の寺院です。つまり、板碑の造立者は自分の宗派的思考にとらわれず融通性のある立場で造立していると思われます。この地域では、浄土宗の信仰ではなく真言宗の信仰に弥陀の種子が多くつかわれており、練馬の板碑の得意な特徴であると思われます。